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Only in dreams(掌編小説)

入り口側のドアの向こうで、キーンと高い音が鳴り続けていることに、部屋に帰ってきた瞬間には既に気づいていたかも知れなかった。
ーーー劣化のせいだろう、竜一は思った。

23時をまわったくらいだったと思う。
最後に時計をみたのは、まだ明るい時間帯だった。
テレビはあっても、ろくにスイッチは入れない。
だから、みたい番組がない。
みたい番組があったのは、もう随分昔のことだ。
だから今では、換気扇の異音にも気がつくことができる。
こんなことは特段、幸とも不幸とも呼べない。
事実、幸とも不幸とも呼べないような日常を、竜一は生きていると思っていた。

「気にするほどではないし、もし気になったときは、換気扇のスイッチを切ればいい」
これまで誰も、竜一のことをクレーマーとは呼ばなかった。しかし、度を越して穏やかな気性を持っているわけでもない。

単純に、管理会社に苦情を入れるという選択肢自体が無いだけだった。
しかし、苦情を入れないことに対して、自身がクレーマーじゃないこと以上に大きな、根本に関わる理由があった。

「どうせ直すのは、オレだ」

前世では、自分の住むアパートの管理会社に、あなたは勤めていた。
そう言ったのは駅前の占い師だった。
しかしそれとは関係なく、ともかく、ここは竜一の持ち家だった。

竜一が天井を眺めだして、しばらく時間が経った。
「天井のクロスの模様の数を、延々と数えていたい」
ホールデン・コールフィールドのような気分だった。後日、竜一はそう語った。

適度に疲れていて、適度に暇だったからだ。
きっとそれ以外に理由はない。
恋人がいたのは、一昨日までだった。
もう話し相手はいない。犬が一匹いるだけだ。

だから、夜になってはじめて、竜一にある考えが過ぎった。

ーーー予兆もなく、サダさんの夢を見ることになった原因は、ニシジマさんなのではないか。

正確には、昨日ニシジマさんと話をしたことで、サダさんの夢を見ることになった、という可能性だった。つまり、それは予兆だった。
サダさんとニシジマさんには共通点が無数にあった。
しかし、これまで竜一は特に、二人を似ていると思ったことは無かったし、二人が一緒にいるのを見たこともなかった。さらに言えば、二人はお互いを知らなかった。
(ニシジマさんが入社してくる前に、たしかサダさんは会社を辞めていたはずだった)
しかし、その事実はここでは全く重要ではなく、竜一が二人のことを知っている、それで十分だった。

そしてそう一旦考え始めてしまえば、もうそれ以前の竜一に戻ることができなかった。
竜一の頭の中には見知らぬ植物の蔦がはびこるように、気持ちの悪い説得力が出現していた。

まず始めに、竜一は今朝みた夢の内容を、事細かに思い出そうとしてみることにした。
一度でも夢をみたことのある人ならわかってもらえると思う。
これは、なかなか難しいことだった。

「一度忘れてしまった夢の内容を思い出すのは、至難の業だ」
以前、竜一にそう話したのは、竜一が良く知る、ウラタと呼ばれる男だった。
「というより、まず、不可能だと言ってもいい」
ウラタは続ける。
ーーーウラタの理論はこうだった。
「これが、夢ではなく、起きている間の出来事ならば」
竜一の両目を鋭い視線が射抜く。
「まだ、記憶のたどりようがある、そうだよな?」
ウラタは、カップを持ち上げてコーヒーを啜る。
「…なぜか?」
そう言って、不意に時計に目をやる。
「ポイントは五感だ。映像なら視覚、音声なら聴覚、そんな単純なことじゃなく、おれたちの記憶は身体、精神、その全体を駆使してつくられている。だから、感覚を通していない夢の中の記憶というのは厳密には記憶ですらない。言うなれば、記憶のレプリカみたいなものだ。当然脆く、壊れやすい」

もぐもぐと口を動かしながら、ウラタは言い終えた。

それから、映画『マトリックス』へと話は脱線し、飛躍していった。
しかし、考えてみればこのエピソード全体が、竜一のみた、いつかの夢かもしれなかった。

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