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おひな様をかたづけよ!(短編小説)

真夜中ーーー
家族が寝静まった家の廊下をトウマは息を殺しながらゆっくりと歩いていた。
今よりもっと幼い頃から、まるで我が家のように行き来してきたはずの離れまでの道がやけに長く感じたのは、きっと明かりが無いからだけが理由じゃない。実際、これはトウマにとって、かつてない冒険だった。

同時に、きっと明日の朝には、家でも、学校でも、これまで優等生として通してきた自分には、もう戻れなくなってしまうような行動ーーーつまり、ある種の背信的な行動ーーーだったわけだが、男としてのトウマの人生を賭けて、どんな犠牲を払ってでも実行されるべきことだ、トウマは今、そう思いながら闇夜に目を凝らし、抜き足差し足、離れの和室の押し入れを目指していた。

一ヶ月ほど前ーーートウマ側の家族と、離れに住む、と言っても、トウマが生まれた今から十年前に建てられたのが、現在トウマたちが住む家であり、どちらかと言えばトウマたちの住む家の方が離れと呼ばれるに相応しいのだが、その離れ(母屋)に住む祖父と祖母、そして、叔母のミオが一同に集って夕食を食べるということになった。

こういった催しは二世帯住宅で暮らす家族同士でありながらも少し珍しいことだった。
もちろん、年末年始やお盆などの行事には欠かさず集まりは開かれた。しかし、ほんのついこの間、県外の親戚も交えた新年の集まりがあったばかりだったので、不審に思いながらも、トウマは、まるでお正月が毎月来るみたいだ、と無邪気に胸を躍らせていた。

ただし、実のところトウマの胸の高鳴りは、お正月が毎月やって来ることに対してではなかった。
まだ小学四年生とはいえ、仮に毎月お正月が来るとしても、まさかお年玉をもらえる回数が増えるわけではないだろう、ということは何となく察しがついたからだ。
だから、トウマの胸の高鳴りは、お金と、それら貨幣と交換可能なNintendo DSなどのハードやソフトなんかの産業的娯楽製品が生み出す人造的な興奮への期待よりも、はるかに本能的な欲求に根差したアドレナリンの分泌、それ故のことだった。

早熟なトウマは、厨二病を四年も先取りして、早くもクールな自分を気取り出していた。
最近では教育系YouTuberチャンネルで覚えた小難しい言葉を使うことがカッコいいと思って、友達や家族の前で自分なりに知的に振る舞ってみせることがトウマのブームになっていた。しかし、その様子はまるで無理して重く巨大な剣を振ろうとする、とある大作ロールプレイングゲームの人気キャラクターを彷彿とさせる痛々しさがあったが、両親は息子の行く末に一抹の不安を覚えるようなことは一切なく、成長の過程を温かく見守るだけの度量を持っていた。事実、自分の身の丈に合った言葉を選び取れる者が真の賢者である、ということをトウマは自ずと知ることになる。しかし、それはまだまだ二十年以上も先のことだ。

そんなトウマにも家族や友達に言えない秘密があった。

トウマを狼狽させ、自ら築き上げた優等生という輝かしいステータスさえ投げ出しても構わない、そう思わせ、全く倒錯的と言っていいほどの行動へと駆り立てるに至った背景に、ある一人の男の存在があった。

その日の夕食には突然、トウマの知らない男が参加した。

男は全くの他人だった。それはトウマにとっても、トウマの両親にとっても、トウマの祖父母にとっても、全くの他人だった。他人がいきなり家族の集まりに参加することはこれまで一度もなく、トウマは焦り、警戒した。生まれてから今日まで、この両脚で踏みならしてきた磐石と疑わなかったはずの地面が、無慈悲にもあっけなく崩れ去っていくような、嫌な予感を背筋に感じたせいだった。

男は自分のことをシンタニと名乗った。細身で長身の、スーツを着た男だった。トウマの父親より、少し年下だろうか、とトウマはそう思ったが、トウマの周りには父親世代の男性がトウマの父親しかいなので、トウマには実際のところ、男の年齢の実態をうまく掴み取ることができなかった。しかし、男はこの場にとても緊張し、その緊張に対抗するように意識的に笑顔を作っている、それだけはトウマにも感じ取ることができた。

祖父や父が、シンタニにお酒を勧め、グラスに順番にビールを注いだり注がれたり、それがまるでお互いがお互いを認め合うための儀式のように繰り返され、次々とキッチンから料理を運んでくる母や祖母もいつもよりにこやかであるのに比べ、対照的に、トウマがだんだんと暗い気持ちになっていったのは、その男の存在や、様子が理由ではなく、なにより、叔母のミオの様子がいつもとは明らかに違っているためだった。

ーーー暗闇にかかった、長い渡り廊下を渡りきり、昼間のうちに手に入れておいた離れの鍵を使って、トウマは静かにドアを開ける。
トウマがこの作戦を思いついたのは、全くの偶然だった。それは、子供ながらにというにはあまりに子供じみていて、逆に子供じみているとさえ言えないような、あまりにバカげた、事実、作戦とも呼べないような作戦だった。

「ねぇリサちゃん、おひな様、もうしまった?」
「ううん、まだだよ。どうして?」
「知らないの?おひな様をいつまでも出したままにしてると、お嫁に行けなくなっちゃうんだって!」

昨日、後ろの席でクラスの女子たちが話していた。
トウマにはミオの結婚を止められる直接的な手段がなかった。そんな力も、権利も、何一つトウマは持たなかった。これまで生きてきて初めて、世の中には自分の意思ではどうにもならないことがあるのだと知った。

この際、迷信にさえも縋ってしまうほどに、居ても立ってもいられなかったのだ。
「今日、オレがもう一回おひな様を飾れば、ミオの結婚…、なくなったりしないかな」

昨日ーーー3月3日の夜ーーーまで飾られてた全部で五段もあるおひな様はすでに祖父の手によって片付けられていた。スマホのライトで廊下を照らしながら、和室の押し入れの前までたどり着いたトウマは、押し入れにしまわれた段ボール箱をごそごそと引っ張り出し始めた。

トウマの目は明らかに怯えていた。さっきから、体がまるで自分のものでは無くなってしまったような感覚がトウマを襲っていたのだ。確かにいま、目の前で押し入れから段ボールが引っ張り出されている、しかし本当にこれは、自分がやっていることなんだろうか。心臓はほとんど痛みを訴えている、早まり過ぎた鼓動のせいだ。喉はその下に繋がる臓器の奥の方までカラカラに乾いているみたいに苦しかった。今、もし家族の誰かに見つかってしまったとしたら、オレは何と応えたらいいのだろうか。そんなことは教育系YouTuberも教えてはくれなかった。世界がほんの数秒の間、トウマのことを置き去りにした。ああ、そのときは寝ぼけたフリでも、すればいいのか!そう閃いたことで、トウマの肩からほんの少し力が抜け、余裕が戻った。自分は冴えていると思ってトウマのテンションが少し上がる。不意に自分が少し賢くなったと勘違いさせ、自信を持たせる程度には教育系YouTubeは視聴者のことを救っている。束の間、冷えてきた足先の感覚に気づいてしまい、途端におひな様を出す作業のめんどくささが沸き起こって、トウマは憂鬱な気持ちになった。

そのとき、押し入れの奥に、見覚えのある小さな箱があるのを見つけた。
急がなくてはいけないのに、トウマはどうしてもその箱の存在を無視できなかった。箱を開けて中身を見ているうちに、トウマの記憶がゆっくりとよみがえってくる。

ーーー「おい、ミオ!将来、おれと結婚しろ!」
「ええ、本当?嬉しい!」
「ああ、絶対おれと結婚した方がいいぞ、なぜならな、おれはきっといい旦那さんになる、いい旦那さんっていうのはな、まず、経済力だ。おれはまず10代のうちにyoutuberになって、たくさんお金を稼いでヒカキンみたいな豪邸を建てるから、そこで一緒に住もう、ミオの好きなネコもたくさん飼えるぞ、うちじゃあ、じいちゃんが猫アレルギーだから無理だけどな、他にも、海外旅行にだってたくさん連れていくぞ、なんせyoutuberだからな、なんだって経費で落とせる。グアム、ハワイ、タイ、韓国、アラサーOLに人気の海外旅行ツアー行き放題だ!あとは、自宅に寿司職人とか鉄板焼きのシェフを呼んだりもできるぞ、もちろんスイーツバイキングもな、アラサー女子は全員スイーツバイキングが大好きだろ?あ、スイーツビュッフェっていうんだっけ?とにかく、絶対おれと結婚するんだぞ!」

そう言って、トウマはポケットから指輪を取り出して、ミオに差し出した。
保育園で作った、スーパーの広告とセロハンテープでできた指輪だった。
ミオは嬉しそうに、左手の薬指に指輪を通して笑っていた。

小さな段ボール箱の中に大切にしまわれていたミオへのプレゼントを、一つづつトウマは拾い上げながら、しばらくミオのことを、じっと考えていた。そして決心したように立ち上がる。
トウマはおひな様の段ボールたちを、このまま押し入れに戻すことにした。

作戦は未遂に終わり、和室から廊下に出た。
そのとき急に廊下の電気が点いて、トウマの前にはミオの姿があった。
トウマは何も言えずに息を飲んだ。
罪悪感と恥ずかしさで、涙が滲みそうになる。
トウマが見つめるミオの瞳は、全てをわかっていながら、全てを許しているように優しかった。

「トウマごめんね、わたし、約束守れなくて」
少し笑っていてもどこか悲しそうな顔でミオはトウマにそう言った。

ーーー高級タワーマンションの高層階からは東京スカイツリーが見える。30畳以上もあるLDKの窓を開け放てばそこはまた広々としたテラスになっていて、春の暖かな日差しがデッキをほんのりと温めていた。
キッチンでは銀座の名店から呼び寄せた寿司職人が仕込みを行っていた。
「トウマサン、お父サンとお母サン、来たみたいよ」
ドレス姿の妻のアイリーンが言った。今日は三歳になる娘のひな祭りパーティだった。マンションの和室には、十段以上の見たこともないほど豪華なおひな様が飾ってある。

トウマはYouTuberにこそならなかったが、30代半ばにして幼いころ自分が願ったものの大半をすでに手に入れていた。

「よし、ホールにみんなを集めよう」

パーティの余興として、トウマと友人たちによるジャズセッションが始まった。

トウマの厨二病は治っていなかった。
しかし、ここまで来たら病は別の何かに昇華されたとも言えるだろう。それを証明するかのようにトウマのトランペットは軽快に、ときに力強く、ブルージィな音色を響かせていた。両親はそんなトウマの行く末に一抹の不安を覚えることなく、まだ成長の過程を温かく見守っていた。

パーティが終わり、ひとり、テラスから日没を眺めながらトウマはふと思い出す。おひな様にまつわる、過去の自分の恥ずかしいエピソードを。
誰にも言えない秘密である、初恋相手の叔母のことを。

よし、タキシードから部屋着へと着替えよう、トウマは思った。
しかし、今日中に、まだやる事がある。
トウマはスマートホンをポケットから取り出して、コールする。

「おひな様をかたづけよ!」

使用人に向かって、トウマはそう言った。


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