見出し画像

ボーは何を「おそれ」ていたのか?

こんにちは、ようやくお日様が出て来て麗らかな春の陽気になって参りました。相変わらず体調は芳しく無いんですが、久しぶりに映画館で映画を見て来ました。

監督の前作であるミッドサマーは何回見たか分からないくらい鑑賞してるんですが、ミッドサマー的なモノ(グロテスクやホラーからのカタルシス)を求めた人はたぶんワケワカランまま3時間を無駄にするので止めた方が良いです。寿司でも食べた方が良い🍣

理由はとにかく長いんですよ...シンエヴァも長くて長くて退屈でカタルシスが無くて苦痛でしたが、それを思い出すくらいに長かったです。やっぱり映画は1時間半から2時間弱が妥当なんじゃないかなって思います。膀胱のキャパシティ的にも。

しょっぱな辛口なんですけど、クリエイターの作家性って初期作に表れるんですけど、映像や映画の場合は制作費がベラボーにいかにスポンサーを騙してやりたいこととやらなくちゃいけないことにすり合わせなきゃいけない。なので漫画家や小説家の原点は初期作にありますが、映像系は話題作で知名度を上げた後に制作費をブン取って好きなことやるぜ‼️で、結果メチャクチャ金をかけたけどエンタメ興行的にはあまり評価されない...みたいなケースって多々あるじゃないですか?この映画もたぶんそんな感じ。

現代の毒親と過干渉されて成長する機会を奪われた息子の愛着障害を、聖書の人物や出来事になぞらえた寓話的な話。おとぎ話。夢と現実。虚構と真実。

ボー=赤ん坊、神の子・イエス・キリスト、ヨブ、モーセなどの神の試練を試されたり人類の罪を償う為に犠牲になる人
モナ=母親、神(そしてマリアではない)、試練を与えて自分への信仰もとい愛を常に試している人

ボーの実家への里帰りは体内回帰願望の可視化、そしてユダヤ人の放浪、約束の地=実家に至るまでに常に危険で迫害が付きまとう危険な旅

あの世界で神に等しいモナは唯一の息子のボーが自分を裏切っていないか=戒律を破っていないか常に監視し記録している。息子が自分の注いだ愛=試練に対して相応しい愛=信仰・感謝を返してくれることを期待している。

この世の始まりは、神との契約から始まっているという。つまるところボーの居る世界にとって神であるモナに対して従順であれば、相応の見返りや祝福を与える。
しかし、そうでなければ・・・

モナにとっては「母親として注ぎ込んだ愛の見返りをきちんと返してくれる息子」を愛しているので、その誇大妄想じみた期待は容易に裏切られる。当たり前だ。例え親子であろうと血の繋がった家族であろうと、別の個体でありそれぞれ異なった意思や願望を持つ。

だが親は得てして無意識に期待してしまうのだろう。最初は無事に生まれてくれれば良いと思う。しかし、大多数の人間は他人と比較することで自分が幸か不幸か相対的にしか測れない。そうして神であるモナはまず最初に失望するのが、ボーが幼児期に自分の母乳を受け付けなかった=自分を拒絶したということだ。少し前までは日本でも母乳神話のようなものがあったが、海外にもやはりあったのだろうか?母乳とはヘモグロビンなどを濾過された血液から作られている。つまりは自分の血であり肉であり、子どもに最初に与える「水」なのだ。一神教である三大宗教が生まれた中東は厳しい環境と気候の砂漠地帯である。そこで一番重要なもの、それは「水」である。ボーの名前がワッサーマンなのは水が豊富では無かった時代に貴重な資源である水を支配していた=かつて富豪であるという名残だったのではないのだろうか。

このエピソードから、モナとボーは幼少期の触れ合いやアタッチメントが少なく、愛着形成が上手く出来なかったのだと考えられる。ボーの母親モナは、自分は母親に愛されなかったという悲しみや怒りをバネにたった一代でアナハイム社並みのコングロマリット企業に成長した。そうして、息子であるボーには自分と同じ思いをさせまいとありったけの愛情を注ぐ。しかしそれは拒絶から始まった。モナの失望は大きかっただろうが、代わりに与えられるものはそれこそ身を削って与えたのだろう。もちろん、見返りを求めた上で。それが、ボーにとって幸福かそうでなかったかどうかは火を見るより明らかだ。

神話の時代から、父殺しは簡単である。しかし母殺しというのはとても困難だ。あの暴君ネロでさえ、長年自分を公私ともに支配してきたアグリッピナを殺しても、その洗脳や支配から覚めるのは容易ではなかった。子どもを自分の権力や手駒のように扱うことを当然の権利だと思っている親は少なく無い。産んでやった、育ててやった、だから感謝しなさい。恩返ししなさい。そうした無言のプレッシャーが積み重なり、見返りを与えられない子どもはやがて親に対して罪悪感を感じるようになってしまう。

ボーが抱えているおそれは、親の愛に応えられないし苦痛であることを伝えられないなどの様々な罪悪感だと思う。それは欧米圏の人間が生まれながらに背負っている原罪や、宗教上の戒律を破ってしまっていること、それに常に母の愛=試練を受けなければならないというどんよりとしたプレッシャーである。

作中に、ボーは恐らくはユダヤ民族だというメタファー、そして神の子であるという仕掛けはたくさんある。露光写真でブレた写真の父親はあからさまに日曜「大工」をしている。これはキリストの父、ヨセフの暗喩だろう。ニュースでは「割礼」した男性がとわざわざ言う。割礼をするのはユダヤ系の特徴である。通り魔に襲われた際に手のひらと横腹に傷を受ける。これはキリストが処刑された際に受けた傷のメタファーだ。そして、キリストはユダヤ民族にとって最大の裏切者なのだ。

街中での事故によって一度「死んだ」ことになったボーは、裕福な夫婦の「娘の部屋」で丁寧な看病を受け「復活」する。後々分かるのだが、この家には亡くなった息子の部屋がそのままにしてある。使う人の居ない部屋ではなく、今を生きているティーンエイジャーの娘の部屋にわけわからない中年を寝かせるやたら親切な夫婦。おそらくはあの世界の神であるモナからしこたま金を払われたのだろう。この世界は契約から始まっている。そうして追い出された娘は唯一の安心できる場所の自室と両親の関心を「また」奪われる。パソコンにもゲロを吐かれる。まさにゲロゲロ。

ボーがテストを失敗する=戒律に失敗する度に、ボーの過ちの代わりに犠牲が払われる。第一幕の際はボー自身が犠牲=事故に遭うことで、テストへの再チャレンジの機会が与えられた。しかし、第二幕でのテスト「なんとしてでも母の元に向かう意思を見せる」ことが出来ず、ボーはまたテストに失敗する。おそらくは、モナはボーを始末しろ的なことを夫妻に命令したのではないだろうか。なので、夫妻は本当にボーを養子として引き取ろうとしたのではないか?そうすれば、トニの行動にも理解できる。兄ばかり溺愛し贔屓し死んだなお今も愛情を独占する亡霊に支配されている両親。愚かで憎たらしい筈の人から愛されたいという葛藤・渇き。これは砂漠で水を得られないよりも苦しいだろう。自分の人生と存在に意義を見出せないトニは、とうとう青色のパステルカラーのペンキを飲んで死んでしまう。これによってボーはあれだけ親切であった夫妻から迫害の対象となり、退役軍人に追いかけまわされることになる。ここでトニという犠牲が払われた。ゆえにボーはテストにまだ母からの試練にチャレンジすることを継続できる。

第三幕 一番退屈で眠くなってしまう展開だ。ヨブ記を元にしたであろう演劇とボーのこうだったかもしれないという希望的展望が交差する。しかし、ここでもボーはまた盛大にしくじってしまう。母親へのお土産を親切にしてくれた女性、しかも妊婦さんにお礼として渡してしまう。そうしてそこに追いかけて来たジーヴスが来てしまい、たくさんの人が死んで犠牲になる。こうしてボーの過ちは許され、再び約束の地である実家を目指す。

懐かしいような恐ろしいような場所には既に人影はほとんど無く、葬儀の様子だけをたんたんと紹介するヴィデオの音声だけが流れている。ひどく演技じみた演出だ。簡素な棺の中には首なしの死体。本来であればユダヤ教の埋葬は本人の辱めないために24時間以内に行うそうなのだが、最近では2~3日遅れることはザラなのだという。遺体の保存技術も進化したのであろう。それでも、実の親の葬儀に遅れるというのは宗教的にもボー的にもかなり失望させてしまったことだろう。本当に、神が死んでいればの話だが。

ユダヤの葬儀の戒律にのっとって、椅子では無い固いところに座ってボーっとしているボー。そこへ葬儀の時間を間違えたという女性が来る。これがかつての初恋の人エレインで、何故かエレインもまんざらでもない。そうして何故かいきなりベッドインするのだが、この流れがあまりにスムーズで気持ち悪い。これもまた、モナの仕掛けた試練の一つだったのだろうか。

そうして、モナのベッドの上で遅すぎる初体験をしてしまうボー。そして原因不明のまま硬直するエレイン。ボー一族の男性の体液は本当に毒なのだろうか?ならばどうやってモナは妊娠したのだろうか?マリアは処女受胎したという。モナはセックスせずにボーを孕んだのだろうか。全くわからない。

街一つ容易に作り出せる大企業の女社長が、自分の不肖の家族を屋根裏に押し込めるだけというのは考えられない。ちんぽっぽモンスター登場のあのシーンはギャグだから、あまり意味はないと思いたい。

結局モナはボーに何を求めていたのか。自分無しでは生きられないと思い込ませ常に自分の顔色を窺わせるようにさせておいて、いざ自分では何も決められない大人になってしまったボーを、神であるモナは冷たく突き放す。水もカードも安全な部屋も、自分からの恩恵は全て取り上げて懲らしめる。

モナの凶器のような愛=試練に耐え乗り越えられるような人間にボーが成長することを願っていたのであろうか。もはや傲慢を通り越して滑稽である。

そうして遂に神殺しならぬ母殺しを無し、未知の世界に漕ぎ出すボー。しかし、ここすらもというか、こここそまさに実は本当に帰るべき場所。モナの胎内だったのだろう。そこに満たされた水の中に還っていくボーは「死にたくない!」と叫ぶ。ユダヤ教では輪廻転生はないだろう。ゆえに、私はこれはボーが生れ落ちる前にモナの胎内で見た「夢」であるいずれおこりうる「未来の現実」だったのではないか。そして、これはもう何度も繰り返しているのだろう。医者夫婦の家での監視カメラの早送りでの未来予知は、かつてもあったことの再現だということなのではないのだろうか?

つまり毎回些末な違いはあれど、いつもボーはテストに失敗しそのたびに犠牲は捧げられ、最終的に断罪されてまた一からやり直させられる。神である母へ、絶対に満たされない底なし沼のような愛=信仰心を注ぎ続けなければ…

胎児よ胎児よ何故踊る 母親の心が分かって恐ろしいのか

ボーが恐れているのは母親の心が分かること、そして死にたくない=もう生きたくないということ、母の試練に試され続ける人生そのもの、そして永遠にこのループから例え死んでも逃れられないということ。

まだ考えがまとまり切ってないのですが、なんらかの参考に役立てば幸いです。

↓良かったらミッドサマーの感想文もあるので、こっちも時間がある時にでも読んで下さい🌸

ヘッダーお借りしました♰

最近こういう看板をめっきり見なくなってしまいましたね。私は字が下手でレタリングやタイポグラフィは苦手なのですが、昔ながらの商店街の手書き看板や京大のタテカンに通じる手書きのぬくもり(❓)がなんだか好きなんですよね...

この記事が参加している募集

映画感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?