死なないで

漫画を読むのが億劫になってしまった。学生時代は話題の漫画なら借りたりして、まあまあ人並みに読んでいた方だとは思うが、最近はめっきり“ダメ”になってしまった。漫画を読む体力がない。私はそもそも漫画向きの人間ではないのだ。好き嫌いが激しいので、最初の1巻を読んでダメだな、と思ったら読まないし、最初の1巻はイケても3巻くらいまで読まないと【理解(わか)】れない。
好きな漫画は、最新巻を読んだら次の巻の発売日まで終わり!ではなく、舐め回すように同じ巻を読み、発売日まで待つタイプだ。また、メチャクチャ感情的なクセにメチャクチャ理屈っぽい性格なので、ただ「○○が○○したシーン感動して泣いた!」だけではなく、「私はなぜ○○が○○したシーンで感動し、泣いたのか?」と、言語化できるまで原因を究明するために何度でも読む。漫画を読むことはメチャクチャ体力がいる行為なので、「暇つぶしに漫画を」ができない。
こんなに体力を使っている割に記憶力はゴミカスなので、こんなに「ちから」を使って読んでも次のコミックスの発売日には全ての内容を忘れている。愚かである。半年にいっぺんくらい発売の漫画の場合、冗談誇張抜きで1巻から読み直している。私は愚かなのだ。

こんな感じなので漫画を読むのが苦手だが、とはいえ、いわゆる【追っている】、もしくは【追っていた】といっていいであろう漫画はいくつかある。

学生時代、舘ひろしと仲村トオルと堤真一を5:2:3でブレンドしたみてえな、イケ柱オジの呼吸の使い手の柱稽古もとい講義を受けていたのだが、その先生に勧められた。舘ひろしと仲村トオルと堤真一をブレンドした既婚男性に「本屋に行って見かけとき、銀座線さんに読んでもらいたいなあって思ったんだ」と言われてすすめられたら読まない理由はないので、あの大学を出てから100億年経つにもかかわらず、未だに律儀に読み続けて今に至っている。まず絵が好きすぎ。生意気な10代、セクシーな男、いけてる女、イケてる男、かわいい女子、おっさん、灰原薬先生は絵がうますぎる。表情がすごいのだ。紙の上の平面の人間なのに、【生きている人間の顔】をする。生きている人間の顔から、【生きている人間のセリフ】が出てくるので、これはこの表情にはこのセリフだよな!!みたいなパズルのピースがはまったかのごとくの爽快感がある。そしてストーリーがおもしろい。若くて生意気な男と酸いも甘いも嚙み分けたと見せつつ咀嚼段階の色男がバディを組んだらうれしいからだ。
ちなみにイケオジによる柱稽古の内容は全然覚えていない。

漫画の話になったときに「テルマエロマエは読んだよ、おもしろかったね」と言ったら「テルマエロマエの作者、別の漫画も面白いよ」と言われて勧められたやつ。全然違うじゃねーか!!!!!マジで謝った方がいい。とはいえテルマエロマエは面白い漫画だし、阿吽も面白い漫画であった。漫画を読んでいて、「絵って生きものなんだなァ」と思ったのは初めてであった。絵の、筆やらカラーペンやらの“筆跡”が見えるのが好きなのだが、作者のおかざき真里先生のカラーイラストは、「ハイ!!この肌!!下に血が流れています!!!」という“生”を感じる。切ったら流血しそうに感じる。白黒の漫画の絵は、「ハイ!!肌の質感!!切ったら血が出ます!!!」という“生”を感じる。初めは電子で読んでいたが、この質感を見たくて紙で買った。
おかざき先生は私がこの世で一番愛する女(ウチの母)と誕生日が同じ(6月15日)なので、これを読んだ方は今年からおかざき先生とウチの母の誕生日を祝ってください。

ドラマ化もしたメチャ=有名=作品である。職場の後輩に教えてもらった。いわゆるドラマのシーズン2(まじで最近)から入った全巻一気買い購入ドシンキ層であるが、この西島秀俊演じるシロさんが本当にキショい。こんなネチネチネチネチネチネチネチネチ考えながらチマチマチマチマチマチマチマチマした日常を生きている男、キショすぎる。チマチマした日常が悪いのではない。ネチネチしてるところがキショい。
私は多感な10代でドラマ版ジェネラル・ルージュの速水晃一に出会ってしまったために「西島秀俊をこんなにキショくしていいんや」とメチャクチャ嬉しくなってしまった。自分に関係ないところでメチャクチャキショい人間の存在が、嬉しいからである。
とはいえストーリー全体に流れる、誰の存在も否定も肯定もしない空気がとても優しくて(ポルノグラフィティの『ブレス』のようだ)、読んでいて心地よさを感じる。ストーリー全体の[なまなましさ]とは少し違った、【生活感】の血の通い具合がすごすぎる。あと、ブラックペアンとJINの内野聖陽が大好きなので、キショい西島秀俊と大らかな内野聖陽のダブル主人公は、初めて見た時はあまりに私にとって“都合”が良過ぎて「ウエ〜〜〜〜〜〜ン‼️‼️‼️‼️‼️‼️‼️‼️‼️と言ってしまった。及川光博は言うまでもない。ありがとう、すべてがアタシにとって都合がよくて…『大奥』の作者の先生だと知った時はビックリしたが(確かに絵柄は大奥だわ)、漫画家ってすげ〜なァと思った。

そんなわけで、今回の話である。
『推しが武道館いってくれたら死ぬ』、『推し武道』は、岡山県の架空のローカルアイドル【ChamJam】(ちゃむじゃむ)の不人気メンバー【舞菜(まいな)】と、この世で唯一舞菜を推すオタク・【えりぴよ】を巡る、ローカルドルオタ物語である。とともに、この私が追っている数少ない漫画である。
7人組女性アイドルグループの「ちゃむ」とその裏側、「アイドル」の「アイドル」ではない姿、「アイドル」が「アイドル」を全うしようとする姿、そして現場にいるキショいオタクたち、どこまでが“リアル”でどこまでが“架空”かは分からないが、私もドルオタなので、「くまささんのような人格者がこの世に存在するか」と思う一方、少なくともオタクのキショさだけはリアルだな、と思った。主人公えりぴよのオタク友達の基(もとい)がまじでキショすぎる。オタクは全員キモいしキショいしどうしようもないが、それを除いても基はキモいしキショいしどうしようもない。こんなやつが同担にいたら絶対にアカウントブロックからのスパム報告をしてしまう。
ChamJam(通称ちゃむ)のメンバーは、ピンクのリーダーれお・クールなブルーの空音・まるで天使だねホワイト優佳・セクシーイエロー眞妃・おっとりパープルゆめ莉・ちっちゃなグリーンあーや・サーモンピンクの舞菜の7人、アイドルなので全員かわいい(アイドルひとりひとりの衣装ではないプライベートファッションに対する細部のこだわりはメチャクチャ熱意をかんじてすごいなァと思う)
一方オタクサイドは舞菜推しのえりぴよ・れお推しのくまささん・空音推しの基さんの3人が主な登場人物である。3人ともキショいので現実世界にいたら全員負けると思うが、負けない。まんがだからだ。

たぶん本当に“リアル”だったら、優佳はイエローで、ゆめりはホワイトで、眞妃はセクシーパープルな雰囲気はあるが、これは私がメンドルのオタクだから“こう”思うんだろうな、というのはある。
アニメも実写も(どちらも全部ではないけど)みたが、とてもかわいい松村沙友理さんが可愛さを一切感じさせないキショい怪演でよかった。


前述の【基】役の豊田裕大さんもアー写を見るとガチボコ顔整いのこの世の覇者みてえながんめんぢからの強さの持ち主だが、ガチボコ顔整いのこの世の覇者みてえながんめんぢからを以てしても抗えない、オタクの、いや【基】のキショさがにじみ出ていてよかった。トップコート所属俳優のがんめんぢからを以てしてもなおキショが上回るつめあとを残せる俳優さんってすごいんだなァと思ったし、なによりこんなガチボコ顔整いのこの世の覇者みてえながんめんぢからの持ち主にこんな役やらせていいんや、とメチャクチャ嬉しくなってしまった。


ドラマの話もしているが、アニメも楽しかった。とくにおどろいたのは、ゆめ莉(声優の石原夏織さん)の歌声と実写ゆめ莉(@onefiveの吉田爽葉香さん)の歌声がほぼニアリーイコールだったので、声優と俳優ってすげえんだなァ、と思ったのであった。

これの「ダンスはまかせて~♪」からがアニメゆめ莉(石原夏織さん)で、

これの「ダンスはまかせて~♪」が実写ゆめ莉(吉田爽葉香さん)である。

吉田そよかさん、何年か前に行ったアミューズフェスのさくら学院さんのメンバーだった、あのメガネのメチャクチャかわええ子やんけ!!!と気づいたのはウィキペディアを見てからだった。石原夏織さんのアニメゆめ莉もかわいくてメチャクチャ実力のあるけどそれもおくびにも出さない控えめな女の子、という演技でとてもよかった。
どうでもいいけどゆめちゃんみたいに歌もダンスもスキルが高いのに後列のアイドルを見るとゲボ吐きそうになる。

何年か前のアミューズフェスのチケット(このころは紙チケット)

ちなみに、その何年か前のアミューズフェスで聞いたSkoop On Somebodyの『不自然なガール』(Perfume)のカバーがこの世に存在するカバー史上いちばん最高だったんだが、公式で上がっているので聞いてください。これ以上惑わせないで…


ちなみに(だれも知りたくないと思うが)私のちゃむの推しはちっちゃなグリーンのあーやである。
私は【クソ=ムカツキ=ビッグマウスの野心家だけど誰よりも努力家のキャラクター】【本来の性格的にアイドルは向いてないけど色んな流れでアイドルの道を走ることになり、尚且つ性根が真面目だから頑張ってアイドルをやってるアイドル】が大好きだからだ。マンガで言うと○○!みたいなのは前述のとおり漫画を読まないのであまり出てこないが、今パッと思いつく好きな漫画のキャラクターはララナギはりけ〜んのナギと、ハイキューの及川徹と、ゴールデンカムイのキロランケと海賊房太郎と、推しの子の有馬かなである。有馬かな、存在しない人類なのにアイドルとして好きすぎる。有馬かなのご報告には泣いてしまった。なんで架空のアイドルのご報告にまで泣かないといけないんだ。
まんがのキャラクターは架空の存在だから好きなんだよね〜、と言うことができるが、わたくしは以前も申したとおり【推し活】を【他人の人生消費最悪外道行為】だと思っているので、私が人生を消費している対象の話は罪の意識がデカすぎて(少なくとも今ここでは)話すことができない。
一応言っておきますけど、推し活=最悪外道行為だと思っているのは、自分(私)がこんなに知らん他人の人生に肩入れしてそれを拠り所として生きているのがキショすぎるってだけで、世の中の大多数の方々は自立して推し活を楽しんでらっしゃることも分かっているので、万が一これを見て「私って最悪なことをしてるんだ」とかは思わないでくださいね、人を応援して、人のために笑えること、涙を流せることって本来は素晴らしいことだと思うので…

熱くなった心追いかけ続ける君、この世界で何より美しい、、、😭

そんなわけで推し武道最新10巻の話をしますが、ネタバレを含むと思いますので以下は自己判断にしてください。


『推し武道』
は、えりぴよと舞菜を中心にそれぞれのオタクとアイドル一人一人の〝人生〟(意味なんかないさ暮らしがあるだけ)が9巻までつづられていたが、10巻では完全に一貫して【アイドル五十嵐れお】と【アイドル五十嵐れおのオタク・くまささん】目線でつづられていたところが一番すごいと思う。そもそも10巻でようやく「すげえアイドル」と「すげえオタク」の話がするのだ。この9巻まで全て前座、つまるところ、ここでようやく神vs神である。武道館ブッ飛ばして東京ドームを見させられた気分だ。興奮しないわけがない。
しがないドルオタ人格の私が思う【くまささんのすごいなァポイント】は、自分とれおとの関係を「アイドルとオタク」としているにも関わらず、大前提として「人と人」の1:1のコミュニケーションが築けていることである。そもそもこの「人と人」の関係は「アイドルとオタク」だけでなく、「親と子」とか、「友達と友達」とか、「恋人と恋人」とかでも、築くのが難しい。「店員と客」なんてもう、人間関係を築こうとすらしない、カスみてえな客と店員ばっかである。人って、立場を越えて、大前提としてまず「人と人である」という対等な関係は築くのって、じつは本当に難しいのだ。それを、「家族」「友人」「恋人」という、【一対一が築けそうな関係の枠】を越えて築いたれおとくまささんは、すごすぎる。
そもそも人と人は対等であるにも関わらず、いや、対等であるからこそ分かり合えないものだと思う。くまささんはマジで(オタクとして)人格者すぎて忘れるが、そもそもこの男は「会社員は休みが取れない」と言う理由で正社員を退職しているので、人格者でもクズだなあと思う一方、「ここまでしても“社会人”として社会に適応しようという気持ちはある」ことに感動も覚えた。
1巻から読むと、彼は(漫画の)最初の時点で「いつが最後の生誕になるかわからないじゃないですか」と、フツーに「れおの卒業」を意識しながらオタクをしている。永遠なんてないことを分かっているのだ。トンチキオタクで結局舞菜の本質は見ていないえりぴよや、その逆でオタク(えりぴよ)の本質を見えていない舞菜、そしてキショガチ恋オタクの基と比べて、(オタク歴つまり世代が上なのもあるが)、マジで『永遠』がないことを知っている。彼は目の前のれおの存在が、奇跡であることを理解している。
メンバー(とオタク)には10巻でれおの家庭の事情やら生い立ちやらいろいろ明かされ(私は「岡山駅↔︎勝間田駅」の所要時間をGoogleで調べてしまいました)、くまささんがこの話をどこまで知ってるのかはしらないが、とりあえず、アイドル五十嵐れお、ほんま、奇跡………………………………………………………………………………………………になった。


この「くまさ対れお」の1:1の関係のすごいところは、1巻の時点で、れおもくまささんの存在を【奇跡】だと理解しているのだ。このふたり、大げさでもなんでもなくて、「こんな好きな人に出会う季節」は二度とない。



読み返してて思ったんだけど、2巻の初めの方の人気投票の話だが、メンバーの前では「こんなこと好きじゃない」(これも本心だろうけど)と弱音を吐かないれおが、当時えりぴよしかファンのいない舞菜に「ファンのみんなのことを信じてみて」と言うれおが、くまささんの前では「今度こそくまささんのことを信じてもいい?」と聞く。それに対してくまささんは「もちろん!やっと君との約束を果たせる」と言う。か、カッコいい〜〜〜〜〜!!!!!!!!!!カッコいいのはくまささんだけではなく、くまささんを信頼して自分の弱いところを見せられるれおもだ。ちゃむがどんなに客が少なくても、絶対に武道館に立つ未来を見ていたれおが、ほかのメンバーが武道館に立てる未来が見えなくても、絶対に武道館に立つ未来を見ていたれおが、くまささんを信頼して、弱いところを見せているのだ。こんなん劇場版で見ないと泣いてしまう。
ただ、れおは絶対にChamJamのメンバーの前ではこんな姿を見せない。彼女は、ChamJamのピンクのリーダーれおだからだ。れおが最後の最後にChamJamのみんなに弱いところを見せて、【れお】と【れおじゃない自分】のガチンコで全員と対話でぶつかって、五十嵐れおの自分じゃない、弱さと強さを併せ持つかっこいい人間であることを見せることができたので、よかった。

上記のように人と人がコミュニケーションを図るには、どうしても【対話】が大事である。
れおとくまささんの【対話】は、10巻の最後の最後に大きなテーマになっていた。れおは児童劇団のころから活動しているので演技が上手い、れおの本意はくまささんにはわからないという、つまり【れおは結局アイドルなので、れおの言葉がどこまで本当なのか、くまささんに届いているのか、わからない】という点であった。
漫画を読んでいる我々オタクは【くまささんとれお】そして【れおとくまささん】の関係を痛いほど見せつけられてるので、全部現実だよ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!とコミックスを投げ出したくなるくらいくまささんのいじらしさ、いや【ひかえめさ】にずんと来たのだが、結局このテーマがあったことにより、れおとくまささんが、「アイドルとオタク」の関係を越えて、本当に「1:1の人間同士」として、向かい合うことができたのではないかと思う。10巻の最後の最後(57話)でメチャクチャ美しい話を見た。まあ、れおは明日からアイドルじゃないんですけど…。れおは明日からアイドルじゃないけど、【『五十嵐れお』じゃなくなった何者かとChamJamの物語】はこれからも続いていくことが分かってよかったと思う。

私は、オタクが推しに言う、「幸せになってほしい」が嫌いである。
性格がひん曲がっているので、言っときゃなんかいいやつみたいに思えるし、どの立場から言ってんねんバ~カと思う。「幸せになってほしい」は、結局エゴなのだ。そもそも「幸せ」なんて、他人が幸せだと感じるものを自分が幸せだと感じていないことなんてザラだし、その逆もしかりだ。
少なくとも、私みてえなカスは、「幸せになってほしい」とか言いつつ、「私が幸せと思うものを、自分も幸せだと思っていてほしい」と思っている。つまり、相手が【幸せ】だと感じていても、自分の尺度で【幸せ】だと思わなかったら、たとえ無意識であれその【幸せ】を否定する行為だ。もちろんケースバイケースではあるが、ものすごいエゴ行為だなと思う。
幸せは〝なる〟ものではなくて、〝感じる〟ものだと思う。
感性は人によって違うので、もう何が幸せでも幸せじゃなくても第三者が口を出す権利はないのかもしれないし、人間だし全肯定タイプではないので、いろいろ言いたくなる日もある。ただ、私の好きな人が、その人が生まれ持ったもの、その人が今まで生きてきたすべてを積み重ねたうえで「幸せだ」と感じる瞬間に、「幸せだ」と感じる部分と感性は、絶対に忘れないでいてほしい、なくさないでいてほしい、とは思う。そのためには何が一番大事なのかはわからないが、とりあえず感性を鈍らせないために、おいしいごはんはいっぱい食べて、あったかい布団で寝て、健康でいてほしいな。というのが近い。


くまささんは、最後までれおに「幸せになってほしい」とは言わなかった。
くまささんはれおからたくさん幸せを感じさせてもらった。れおもくまささんからたくさんの幸せを感じさせてもらったのは、見てるこちらからしたら明らかなのだが、彼は、最後の最後で【ただのオタクでしかない自分】、いや【ただのオタクでしかない自分】だからこそ、自分がれおを幸せにしてるつもり、つまり“確信”という名のエゴがあったのだ。「誰の1番にもなれないってわかってるから自分が一番れおのことを好きでいたい」って言っていたくまささんがである。ゲロ吐く。
私がオタクをしていて自分のことをキモイなあと思うのは、自分の夢も希望も見ず知らずの他者に押し付け擦り付けて、実在の人間でおままごとのごとくお人形遊びをして、勝手に一人相撲を取って、さもいい話に仕立て上げる【他人の人生消費最悪外道行為】なところなのだが、くまささんのれおに対する「れおちゃんは僕がれおちゃんに夢見たことを全部見せてくれる」はまさしく【それ】のきわみであまりにもキモい。キモすぎる。こんなにキモいのにこんなに美しいシーンなのが意味わからん。次の夢を聞かれて、「れおちゃんが武道館に行ってくれること」を見ている。キモいよ〜!!!キモいのにこんなに美しい。常日頃からオタクのことをキモいキモいと言っているが、それでも、その輝きの裏にある美しさを見せつけられると、その圧倒的さになにも言えなくなってしまうのである。同時に私はいわゆる【推し活で命を燃やしている人間】が好きなのだ。何度も言っているように「推し活って本当にたのしい!キャンメイクトーキョー!」みたいな風潮はマジで否定的なのだが、苦しんで苦しんだ末の推し活で【かがやき】を見出す瞬間がメチャクチャ好きである。かがやいてもがいてどうしようもない愛と光に苦しんでほしいし、これは自分でも苦しみたいし、自分事でなくても苦しんでいる他人が見たい。私は芥川龍之介の『地獄変』が大好きなので、マジの極論で言えば絵師良秀の心境に近いと思う、と言ったけどそれとこれは全然違う話です。


季節はめぐる。
よく「○○(解散したアイドルグループ)が私の青春だった」という。
「青春」がいい言葉なのかはわからないが(まあいい言葉なんだろうが)、私は夏生まれなので春より夏が好きだし、季節の移り変わりを楽しめないのは無粋だと思うので、青春にこだわらなくてもいい気がする。
えりぴよも基も「青春」を生きているアイドルオタクだとしたら、くまささんは確実に【朱夏】を謳歌しているアイドルオタクだと思った。
彼は、もしかしたられおが本当に武道館に立ったら、白秋も玄冬も通り越して、死んでしまうんじゃないかと思う儚さすらある。『推しが武道館いってくれたら死ぬ』という漫画なので、ちゃむが武道館へ行ったらくまささんもえりぴよも基も死ぬのかもしれないが、たぶん死なない。えりぴよも基も図太いし、なにより現実世界で言えば武道館に行くようなアイドルには、本来なら確実に「その次に見る世界のためにオタクは死ねない」世界が、広がっているはずなのだ。


朱夏の次には、たぶん【白秋】と【玄冬】が来る。
くまささんは今後もうれお以外のアイドル(ルビ:好きな人)に出会うことは2度とないだろうってくらい、春と夏を五十嵐れおというアイドルと過ごした。彼はれおとの思い出を心に抱えながら、秋も冬も死なずにこれからも生きていくんだと思う。
私は、彼が死ななくてよかったなぁと思った。

ちいかわ島編で、「煮付け」の話が更新されたときに、「(永遠の命が与えられる)煮付けを食わすか食わさないか?」がテーマになったので冷静に考えたが、私はどうやら「お前のいない世界で、お前の面影を抱えて永遠の命を生きていく」にメチャクチャ興奮するので、くまささんにも人魚の煮付けを食って、明日からはれおのいない世界で、れおの思い出と面影を抱えながら、永遠に生きてほしいなァと思うのである。


てかくまささんに言いたいんですけど、くまささんは何だかんだれおがいなくなってもどうせちゃむのオタクはやめらんねえ~と思うし、「れおがあんなに信頼しているメンバーの未来を見届けない理由がない」とか言うはずなんで、本当に来週からも変わらずえりぴよと基と現場に足を運ぶことはすると思います。てかその程度でドルオタやめられたら苦労しねーからな!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!たのむからちゃむの活動終了まで見届けてくださいよマジで。推しが武道館いったその先も見届けてくださいよ、マジで死んでる暇ありませんよ。


以上、令和最初に武道館に立ったけどその3年後に解散したアイドルグループのオタクである私からのコメントでした。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?