これを見てくれてるみんなは私のことを知っているであろうので、今さら言うことでもないが、私はポルノグラフィティというバンドのことが好きである。いわゆる「推し」と言っていいかはわからない。好きなアイドルにくらべて熱量を注いでいる自覚もない。ただ、なんとなく長い間、好きなだけだ。
好きになったキッカケは、あんまり覚えていない。だが、ポカリのCMだったミュージック・アワーのサビを、意味も分からずに歌っていたことだけは覚えている。当時、幼稚園くらいだった気がする。年の離れた一番上の姉は、当時高校生で【世代】だったので、かわいい末妹のためにどこからともなく「ミュージック・アワー」のCDを借りてきてくれた。たぶんもうCDプレイヤーやらMDやらウォークマンやらなにやらの時代ではあったが、三世代同居でラジカセが現役だった我が家において、新品のカセットテープでダビングもしてくれた。よくわからんが、明るくて、夏っぽくて、いいなァと思った。性根がゴミ=クソ=根暗なわりに、幼いころから夏は大好きだ。魂が呼ばれている感じがする。夏生まれだからである。

歌っている人たちはポルノグラフィティ、略して「ポルノ」というらしい。後から聞いた話だが、幼い末妹がポルノ、ポルノと言い始めたので、母は長姉に怒ったらしい。私も「ポルノって恥ずかしい言葉だから、人の前で言っちゃいけません!」と言われた。何がどう恥ずかしいのかは、だれも教えてくれなかったが、クラスで一番ませていた友人は「エッチな写真、って意味だよ」と教えてくれた。

そこから25年くらい経ち、私は大人になった。どれくらい大人になったかというと、一人で暮らして自分の稼いだ金で自分ひとりだけで家賃光熱費食費交際費何やらかにやらを【どうにか】し、もろもろのローンを払い続けて悪口を言いながら生活するにはまァ、というレベルの大人である。
その25年間には、明確に「推し」と言える存在が何人かいる。私はドルオタだが、いくぶん【思想】が強すぎるので、自担が私のカスみてえな【思想】にさらされてるということを世に知られたくないため、あまりまあ自担の話をしたくないわけだが(そうなの?)、とにかくこの25年間、「推し」の中にはポルノグラフィティはいなかった。推してないからだと思う。暁のアルバムも買ってないし(そのくせ暁のライブBDは発売日に買いジルダのバックで流れていたサポメン映像に涙を流しながら酒を飲むしまつ)、ラジオも聞いてないし、メンバーのソロ活動も追ってない。ミュージカルのなんか…舞台挨拶?に行った友人の話聞いて、オイオイおれを置いていくな~~~と思っていた。
この二十数年の間には、御存じのとおりCOVID-19こと新型コロナウィルス感染症がこの世界にはびこった。(株)弊社でも、一時期リモートワークが推進されたことがあった(今でもされているらしいが、浸透していないくさい)。コロを機に、ビジネス的にも私生活的にもオタク的にも、この世は良くも悪くもデジタル化が進んでいったように思う。オタクで言えば、ライブ配信文化なんかがまさにそう。
仕事もそう。ここ数年、エスディージーズをかかげる弊社は、バカみてえにデジタル化やリモートの活用、稟議、決裁して発出する文書の社印省略などが進められている。ちなみにこの「社印省略」の風潮は、弊社の中でもゲボ・クソ・カスのトリプルウンコだと思っている。御社に対して「弊社ではデジタル化、押印省略化が進められておりまして、御社への文書もこちら、社判を省略してもよろしいでしょうか?」の確認だけならまだしも(「まだしも」じゃねえしめんどくさい)、「いつもお世話になっております。(株)弊社の銀座線と申します。○○部○○課の○○様へお繋ぎいただいてよろしいでしょうか、お願いします。あ、お世話になってます○○さん、銀座です~。お忙しいところすみません、今よろしいですか。先日送っていただいた請求書届きました、ありがとうございます~。はい、★日付けの処理番号○△番ですね。で、これなんですけど、こちら内容を確認したところ御社の押印をいただいていなくてですね。ですが弊社の規定かわりまして、代表の方と御担当者様をこちらで確認とれていましたら良いことになっておりまして、ええ、その確認書面をつけて経理に提出することになってるんですね。確認なのですが御社代表は○○様で、お間違えないでしょうか。はい、フルネーム漢字で…はい、はい、ありがとうございます~。すみません、ではこちらで処理しときますね。はい、ありがとうございます、ではまたよろしくお願いします、失礼しまバーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーカ!!!!!!!!!!!!!カーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーース!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
私は、デジタルをあまり信用していない。学生時代にわりと紙についての勉強をしてきたというのもあるが、それより第一に目が痛くなるからである。ワードやエクセルの「並べて表示」とか無理すぎて、社の方針として「環境保護及び経費削減、エス・ディー・ジー・ズのために無駄な印刷は控えるように」と言われているが、全然印刷してる。だってこんな目が痛いし、どこまで見たかわかんないんだもん。今後何百何千年続くかはわからない弊社の歴史よりも地球の環境よりも、少なくともあと2~3年はワンチャン続くであろう私の健康のほうが何億倍も大事である。
もちろん電子も便利だ。電子書籍は場所を取らないし、データ保存、クラウドなんて特に便利だし、音楽のサブスクもないと生きられないようになった。都心のデカい博物館とか図書館に行かなくても、デジタルで資料が見れたりして、ライブも配信で見れたりして、いい時代だなアと思う。配信文化だけは消えないでほしい。でも、やっぱり電子書籍を見ていると、読んでる途中で「あれってどうだったっけ?」ってページをめくり戻すのが非常にめんどくさい。本の意味、本を読む意味さえない。
拡大はできるけど、全体の森を見つつ、1本の木だけを見るなんてことができない。実物の筆跡、筆づかい、墨や絵の具の濃淡に勝るものなんて、そしてその下に通る実在の人間の息遣いや血潮に勝るもの、そしてそれを自分の目で見ることに勝るものなんて、なに一つないのだ。なにより、信用できない。なんだかんだ、ハードディスクはちょっとの振動ですぐぶっ壊れるほど儚いらしいし、USBもわりとすぐ「使用できません」ってなったり、あと私みてえな人間はすぐ物理的に失くす。USBも、ハードディスクとパソコンを繋ぐケーブルみたいなやつも失くす。USBとケーブルを失くすやつはクラウド上のデータも間違って消す。てか、そもそもクラウドにバックアップを取らねえ。その発想が無え。オタクの草子第一億段、はかなきもの、クラウドに保存していたと思っていたデータ、なんか知らんけどぶっ飛んで挿入するたびに「フォーマットしてください」と表示される職場のSDカードのデータ、フォルダに入れていたと思ったら何故か消えていた川尻蓮くんのプラメ1カ月分、ろくにバックアップを取りもしねえのに払い続けるアイクラウドの手数料。ゆうて500ギガもないのに「ファミリープランのほうがいいよ」とかいうから、律儀に2テラの料金を支払い続けている。どうしろっていうんだよ。

その点、紙はいい。記録として物理的に存在するからだ。わたくしのこのnoteなんぞを読んでいる各位はご存知でしょうが、ナマで、目に見えて物理的に存在するものは、やはりなんともいえない「ちから」、迫力を持つのである。たしかにかさばるし重いし邪魔になるけど、それはそこにまさしく体温があり、生き物の血が通っているからだ。人間には五感があることを、知りえるのは人間しかいない。そういったものが「存在している」ことはありがたい。記録より記憶に残りたいと、かのメダリストは言ったらしいが、残念ながら人間の記憶はだいたいろくでもないしカスだしクソだしどうしようもないので、物理的に残っているものが証拠となるのは歴史上明らかだろう。
人類の歴史には木簡、石板、粘土板やらの記録媒体があるが、やはり長い間、記録媒体として残すならば圧倒的にデジタルよりも物理、紙が有利だ。デジタル派の人はすぐ「紙は燃える」と言う。燃やさなきゃいいだけである。ハードディスクだって燃やそうと思えば燃えるし、そもそもデジタルのものは燃えない、というわけがないことは、インターネットの炎上が身をもって証明してくれている。
実用的な紙が発明されたのは紀元105年頃、中国は後漢時代の蔡倫によってだそうだ。日本には7世紀、高句麗の僧・曇徴によってもたらされた。
8世紀、律令制の時代になると、『古事記』や『日本書紀』などの編纂のために、蔵書や紙を管理する図書寮がおかれた。世界最古の印刷物と言われている奈良時代の百万塔陀羅尼は、和紙である。この時点で【紙】は、1,300年もの記録としての価値が保証されている。そしておそらくその年月は、これからも更新されてゆくことだろう。日本の紙は世界一。

話が脱線した。紙の話がしたいわけではない。

したいのはポルノグラフィティの話である。前述のとおり、私は多感期まで三世代同居でラジカセが現役だったため、ポルノグラフィティが音楽番組に出ると、テレビのスピーカーにラジカセを当てて「ちょっと静かにしてて!!」と録音していた。小学4年生の誕生日だかクリスマスにはそんなことをしなくてもテレビ番組が聞けるラジカセをプレゼントしてもらった。
私が初めてポルノグラフィティのCDを買ったのは2007年の『リンク』、初めてライブに行ったのは2009年の10thライヴサーキットロイヤルストレートフラッシュ。どちらもおこづかいを貯めてCDを買い、チケットを取った。部活の試合があったけど、どうにかサボって2009年の東京ドームへ行った。中高時代の私は制服かジャージか「ポルノ」と書いてあるTシャツしか持ってなかったので、制服の中に「ポルノ」と書いてあるTシャツを着てライブに行ったこともある。ギターの新藤晴一が結婚した日は日直だったので、「好きな男が結婚したようです」と学級日誌に書いたら、担任から「生きていればいろいろありますが、これからもがんばってください」とレスが来た。ロイスーとターゲットのTシャツタオルと愛と青春の日々のTシャツは命より大事にしていて、そのわりに部活の練習着にしていた。県外の合宿所で、私のタオルを見た知らん学校のラバッパーの子と、食器洗いをしながらポルノグラフィティの話で盛り上がった。
貯めていたお年玉で、MV集のバカデケーやつを予約して買った。部活を休んで、最寄りのTSUTAYA(潰れた)までチャリをブッ漕いだ。規格がよく分からんので、そのままデケー紙袋に入れられて、塾に直行した。
主題歌を担当すると聞いて、放課後の部室(最悪電波状況)で『アニマロッサ』がオープニング初回となった『BLEACH』のアニメを見た。ゼット世代各位は知らんと思うが、我々ゆとりどもはガラケーでテレビ番組を見るために(「ワンセグ」という)、ガラケーのアンテナを立て、真ん中のボタンを連打していた時代があった。数年後、またアニメの主題歌をやると聞いたので、終電を逃した漫喫で『ヒロアカ』を読んだ。
中学時代、同じ男の子に2回も告白したのになぜか2回もフラれたときは『あなたがここにいたら』を聞いた。音楽再生機器を持っていくと先生に怒られるので、セーターの裾にプレイヤーとイヤホンを忍ばせていた。
数年後、好きな男の子に告白する!ってときはともだちがカラオケで『Please say tes,yes,yes』を歌ってくれた。つい何年か前も、「人としてどうかと思う」と別れを告げられたときは『サウダージ』を聞いた。
やりたいことが分からなくて、自分がどうやって生きていったらいいのかわからないときにBUTTERFLY EFFECTで聞いた『ギフト』でめちゃめちゃに泣いた。
コロカスのせいで仕事がどうにもならなくなったときにREUNIONで聞いた『星球』でめちゃめちゃに泣いた。
大げさでもなんでもなくて、ポカリスエットのCMで流れていたミュージック・アワーを聞いた日から、(おそらく、私が意図的にすぐそばに存在させていたんだと思うが)ポルノグラフィティは私の日常のすぐそばに存在していた。あまりに日常すぎてよくわからないが、よかった。

私は先日エレファントカシマシについての約1万字noteを書いたが、ポルノグラフィティのどこが好きかは分からないので、ポルノグラフィティの好きなところ、すごいところで1万字も書くことができない。どこが好きかもわからないので、そもそも本当に好きなのかもわからない。ただ、もしかしたらすきかも、という程度かもしれない。
ポルノグラフィティは1999年にデビューし、今年2024年で25周年らしいが、デビュー19年である2019年に大々的なお祭り(とオタクが思っている)をした。池袋で「ポルノ展」をし、なんかコラボカフェもやった。コラボカフェのことはメンドルとなんかのアニメの専売特許だと思っていたので、ポルノグラフィティ、メンドルもしくはなんかのアニメなんだ。と思った。

なんだったんこれ?

しかし、ポルノグラフィティはメンドルではないが、なんかのアニメのキャラなのかもしれないと思う。なぜならばこの時、漫画家・うえはらけいた先生による「ポルノ展開催記念」のまんがが、池袋駅構内に大々的に貼られていたからだ。

まんがでわかる ポルノグラフィティの20年

私はこのうえはら先生の漫画がメチャクチャ好きだ。この時もわざわざ池袋まで行き、全ページ写真を撮っていた。
とくにメチャクチャ好きなシーンは、ポルノグラフィティが高校時代に結成されるシーンである。このへんのくだりは『ワイラノクロニクル』でさんざん読んだし、私と飲むとこの話ばかりされるのだが、あいにく権利的にページを載せていいのかはわからないので文字で書くことにする。

ナレーション「当時、新藤は因島に引っ越し、自分をボーカルとした『ノースコア』というバンドを結成。」
高校時代の新藤晴一「わしらにスコアなんて必要ない!という意味からこの名前にしたんじゃ!」
注意書き「※本当は譜面が読めなかったからという説もある」

ナレーション「当時はギターケースを背負って町を歩くのが格好いいと思っていたらしい」
高校時代の新藤晴一「バンドマンじゃけえ、当然じゃ」

高校時代の新藤晴一「ワシのバンドがコーラスを探しとるんよ、ちょっと歌ってみぃ」
高校時代の岡野昭仁(困惑)「🎶♪♬~」

高校時代の新藤晴一「!!(コ、コイツ!!)」

出典:『まんがでわかるポルノグラフィティの20年』p.3
出典:『まんがでわかるポルノグラフィティの20年』p.3

高校時代の新藤晴一「ボーカルはお前に譲るわ」
高校時代の岡野昭仁「えっ!?いいの?」
ナレーション「ここから二人の長いバンド人生が始まりを告げた!」

出典:『まんがでわかるポルノグラフィティの20年』p.3


もう、【もう】である。【もう】だし、このシーンに【すべて】が詰まっていると思う。ポルノグラフィティは、ギターの新藤晴一が「ロックバンドになりたい」という夢をかかげて、ロックバンドになりたいとは思ってなかった岡野昭仁のバチゴチ歌唱力に出会って、わしより歌が上手いからボーカルをお前に譲ったけど、それでもここから二人の長いバンド人生が始まりを告げたバンドだ。ここから二人の長いバンド人生がどこまで続くかはわからないが、少なくとも、ポルノグラフィティが続く限り、私がポルノグラフィティを追う、という事実には十分だと思う。ここから二人の長いバンド人生が始まりを告げたポルノグラフィティは2019年9月7~8日に東京ドームでデビュー20年の記念のときを迎えた。

その一方で、ひっそりと1人の人生が終わっている。うちの婆さんである。


うちの婆さんは、2019年8月31日に危篤になったあと、なんやかんやで2019年9月3日の夕方、90歳で息を引き取った。
数日前まで池袋かなんかで「コラボカフェ~」と言いながら、冷めたオニオンスープの写真を撮りつつ、友人の結婚式に出席していた私は、「人の人生はこんなに一気に変わるものなのか」と、びっくりした。
当時、私はクソデカ=ビッグ=仕事の〆切を2つほど抱えていたが、婆さんの入院していた病院は、私の職場からクルマで15分もしないところにあったため、クソデカ=ビッグ=処理をしながら定時後に婆さんの見舞いに行っていた。
婆さんは幅跳びかなんかの陸上選手だったので、強心臓だった。最期の最期まで、すごく頑張っていた。お医者さんの先生もそう言っていた。

9月1日に退勤するかしないかの間際、親から連絡が来て、退勤して、病院に行った時点で、もう何日もつか分かりませんと言われた。
お医者さんの先生の話を聞いて、病室を出た後、私は「ポルノのライブあるんだけど」と言った。家族からは不謹慎だ、と言われた。それは本当にそうである。
ふつうに考えれば、ポルノグラフィティのライブどころではないのだ。バカではないので、脳内では理解していた。チケットは誰かに譲ったりとかできないの、と言われた。当時はデジチケではないし紙なので、友達の友達とか、誰かを探すべきなんだろう。脳内ではもちろん理解している。
とはいえ、婆さんは死んでないし、管につながれながらもまだ頑張って生きている。なのに、なんで私は婆さんが死ぬ前提で、行きたいライブに行かないための行動しないといけないんだろう。いままできついことがあっても、ポルノグラフィティのデビュー20年の東京ドームに私の居場所があることを励みにして生きてきたのだ。10年前と同じ東京ドームで、デビュー20年をお祝いできることが楽しみだった。
それが、わたしの大好きな家族がこれから死ぬっぽいからしょうがないね、だから私はどうせライブに行けないので、別に大好きではないけど幼稚園くらいからなんとなく好きだったバンドのデビュー20年のお祝いに、私の代わりに行ってくれないでしょうか、ということを、どういう気持ちで言って、どういう気持ちで自分の代わりの人を探せばいいんだろうか。もしかしたら、できる人はいると思う。私にはできなかった。

この当時は、同行した友人2名をはじめいろんな人に迷惑や心配かけたし、の気持ちは今でも考えるだけで頭がおかしくなって泣きそうになるとゆうか実際今も泣きながらこの文章を書いているんだが(情緒~!)、とりあえず婆さんを看取ることができたので、さすがに今わの際にライブのことなんて頭になかったが、駅まで家族を迎えに行ったりして、夜8時を過ぎた病院のロビーで今後のことを考えていた。とりあえず社会人なので、もろもろの〆切は守らないといけない。連絡して、ライブどうしよう…と思った。
人の死に目に立ち会う、というのはものすごくパワーを使うことを知った。
人が、とくに家族が目の前で死ぬのって、想像以上にパワーを吸い取られるらしい。だから、とりあえず気持ちに区切りをつける、悼む必要があるから葬儀って大事なんだなと思った。
葬儀場の都合で9/8(日)に通夜、9/9(月)に葬儀と決まったため、祖母が死んでからも5日くらい区切りをつける暇をもらえないまま、出勤して残業して仕事をしていた。残業後は帰宅しても飯を食う気力もなく、夜の3時ごろまで全然寝れなかったと思えばその後は明け方まで気絶したように寝て、起きたら洗濯機が終わった状態で干す暇もなく、全裸かポルノグラフィティ20周年記念グッズである両面Tシャツ(バカ)以外に着る服もなかった。それでも働かないといけないらしい。大人として、社会人として働いて自立して生活する、というのはそういうことらしい。金を稼げば住む問題ではないらしかった。
そんな生活を3日も続けていたらさすがに意味が分からなくなって夜も朝も泣いていたら過呼吸になり、2時間くらい休んだ。スポーツカーの後ろににロープでくくりつけられたまま、高速道路を走らされているような気持ちで毎日を過ごしていた。3~4日くらいの話であったが、体感としては永遠とも言えるくらいに長かった。


このときの私は、単純に何も考えたくないくらい疲れていた。
9月8日が通夜なので出られないとしても、9月7日は葬儀ではないので行こうと思えば行ける。もう疲れていた。身内が死んだのに、ライブに行ったら不謹慎なのかもしれない。そりゃそうだ。でももう疲れていた。いや、そんな状態で働くことがそもそも不謹慎じゃねえの?仕事はよくてライブがだめな理由、ある?ない。
ここまで読んだ人の中には不謹慎だと思う人もいるかもしれないし、私も人からこんな相談を受けたらそれはちょっと、って言うかもしれない。こんなことはもうあってほしくないけど、またこんなことがあったら、私はどうするかわからない。でも、あの時私が私の心を守るためには、ライブに行くしかなかった。もちろん身内に不幸があったので、行く気分にはなれなかったが、行くしかなかった。行かなかったら、祖母の死には向き合えないし、祖母の死に向き合えないことは、自分の心が守れないからだ。なんで今死ぬの、というドロドロとした気持ちを婆さんに対して今後一生抱き続けると思ったからだ。それだけは絶対にしたくなかった。
絶対にしないチャンスが一つだけあるなら、するしかなかった。たぶん倫理的にも、人としてもどうかとは思うけど、倫理より自分が大事なので、自分を守るために間違いない行動をしたと今でも思っている。

2019年9月7日のことは全部忘れることができない。
同行友人たちは「がんばったね!」「来れてよかったね!」と迎えてくれた。行く行かないで振り回して迷惑をかけたが、あたたかい言葉をかけてくれた。ありがとう。顔を見た瞬間に泣いた。
一日しか着られない両面Tシャツ(バカ)を着た。10年前の東京ドームとは違って1階席で(10年前は2階席)、でも少し遠かった。それでもここに来れて嬉しかった。私が、勝ち取った席なのだ。
ポルノグラフィティは広島カープのファンなので、野球の登板のごとくナレーションで登場した。10年前は上昇する舞台に逆立ちして登場した岡野昭仁、フッツーに歩いて入ってきた。この時点で私はありえないくらい号泣していたが、満員の東京ドームを見渡して誇らしげにうなずき、拳をにっぎりしめる岡野昭仁、ちょっと緊張してるっぽかったけど満員の客席にニッコニコの新藤晴一の姿を見たら涙が止まらなくなった。
どうしよう、いる。東京ドームに、ポルノグラフィティがいるのだ。今までどんなにしんどくても見たかった景色だ。
岡野昭仁は、すぅっと息を吸って、あの歌を歌い始めた。


そこからは人生で一番見たかった景色の連続である。一生分の人生で一番見たかった景色を見た。
本編ラストのVSの間奏で、東京ドームのど真ん中に置かれたステージに向かって、新藤晴一がギターを弾きながら走り出した。
その後ろに、満員の観客に大きく両手を振りながら、岡野昭仁が続いた。
デビュー20年の最後の最後、記念すべき瞬間に、東京ドームのど真ん中に岡野昭仁を連れて行ったのは、新藤晴一なのである。
泣く。
私はこの時点で、アイメイクも何もかもが全部流れ落ちている。
少し駆け足でセンターステージに至る新藤晴一と、マイペースでニコニコと手を振りながら歩いて到着する岡野昭仁。私の好きなポルノグラフィティがいた。そうだ、ポルノグラフィティって「こうゆう」バンドだった。 ど真ん中であの少年に向けて、誇らしげに「こっちもまだ戦ってんだよ」と言うバンドだから好きなんだった。ポルノグラフィティを好きでいてよかった。
東京ドームのVSのアウトロを聞きながら、ルーベンスの絵を見たネロの気分になっていたが、最後の最後に聞いた【あの一節】で膝から崩れ落ちてしまった。人は、思いもよらない感動を与えられると膝から崩れ落ちることがあるらしい。
この場にいたら孫として、いや人としてダメなのかもしれないが、この場に来てよかった。私が、私のために勝ちとったチケットだ。よかった。たぶん本当によかったのだ。


そしてあのバンドをさらに好きになった日から、4年半ほど経った、2024年1月30日である。
私はもう、助かりたかった。

助かりたかった、が何を意味しているかはわからないが、とにかく助かりたかった。誰かに助けてほしかった。助けてもらったうえで、助かりたかった。
2023年は仕事がメチャクチャ忙しかったのだが、とくに年末から仕事がありえんくらいにメチャクチャ忙しかった。ありえんくらいに打ち合わせだの〆切だの外回り対応だのを入れられ、作った書類は修正を繰り返し、ようやく作ったらダメ出しを喰らい、休む余裕もなかった。休んでいいと上司は言うが、私が休んだところで仕事が片付いているわけではない。こびとさんなんて存在しないから、自分でどうにかするしかない。ロクな時間に帰れないのでロクなものも食べられず、料理や掃除や洗濯といったこともできない。コートをハンガーに掛ける元気も、郵便物を開封する元気も、ゴミ捨てをする元気もなく、休日は朝から晩までベッドの上で寝るかストレスを紛らわすために酒を飲むかの2択である。衣替えができなくて衣装ケースからセーターを取り出して着るという部屋の汚さであった。自分が自分を大事にできなくてつらい。そんな感じなのでプライベートでもいろいろあり、人を思いやる余裕などなかった。些細なことで軽率にダメージを受けまくるハートはササクレどころではなく致命傷であった。
この日も出勤したくはなかったのだが、当日朝9時からの打ち合わせに出席して、10時に終わって、10時30分に退勤しますね(^^)と10:31に退勤の打刻をして帰ろうと荷物をまとめ、コートまで着かけていたら10:32に来た客の相手をさせられ、そこから約30分間接客をさせられたあと、11時すぎにようやく客から解放されるような人生である。マジで意味が分からない。もう、助かりたかった。
開演20分前に大阪城ホールへ到着し、なにがなにやらわからないまま席に着いた。大阪城ホールは大好きなハコの一つで、周りのビルや公園なんかも合わせた景色も大好きで、もっとそういうことを楽しみたかったのに、なんも楽しくなかった。というか、楽しむ時間もなかった。
いい年なのに新幹線の中ですでに泣いていたので、顔面はボロボロである。あの東京ドームの日を思い出していた。なんかもう、助かりたかった。

黒いベール オタクの列 欠けた月と大阪城ホール

開演のライトが暗くなった瞬間にもう「ウワーッ!!!!」となってしまった。東京ドームのVSの【キラキラの舞うセンステにいるポルノグラフィティ】が好きなのだが、一発目でそれが見れるとは思っていなかった。ちなみにワズビル初演名古屋2日間には参加しているが、それはそれである。一発目がセンチュリーラバーズって、“いい”んだ………と思うと同時に、【私が好きなポルノグラフィティ】を一発目からかまされ、助かりたい女は爆裂に号泣した。センラバは泣き曲じゃないしセンラバで泣いた事はないが、センチュリーラバーズはポルノグラフィティと私のことなので、限界状態に【見たい】【求めていた】モノを脳に直接流し込まれるのは刺激が強すぎる。ポルノグラフィティ、かっこいい。こんなにかっこいいんだ。こんなにかっこよくて力強いバンドが好きなんだ。私って、助かりたい限界女のくせにいくらなんでもセンスがありすぎる。
その後のテーマソングでは歌うこともできずに全自動嗚咽マシンと化していた。視界も脳内も感覚も思考も全部ポルノグラフィティだけで満たされた。生きてる実感を得た。
この日は[泣][嗚咽][大好き][生きててよかった]が2時間半くらい続いた。ちなみに生まれて初めて行ったロイスーで空想科学少年を聞いたんですけど、今後の人生で聞く事はないと思っていたので、「ポルノグラフィティって空想科学少年を知ってるんだ………」と思った。今後聞けないかもしれない。
またしても、一生分の見たい景色を見てしまった。一生がデカすぎる。いいんですか?こんな一生で……………………

ポルノグラフィティ、一生生きててほしい

ポルノグラフィティは、最後にマイクオフで我々オタクたちに挨拶をしてくれる。

岡野昭仁「みなさん、次に、元気でまた会いましょう!それまで、絶対に、元気でいてください!!!!」

ウォーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

まじでこれでびっくりするくらい泣いてしまった。岡野昭仁はここ最近、いつもコレを言ってくれるのだが、マジでびっくりするほど泣いてしまった。岡野昭仁という人間は、「絶対に元気で会いましょう」じゃなくて「また会うために絶対に元気でいてください、そして絶対に元気でまた会いましょう」なのである。岡野昭仁のそういうところが好きなのだが、この日の【コレ】はマジで、助かりたい女に“響いて”しまった。お父さんでもお母さんでも、家族でも友達でも恋人でもないのに、次の現場(※明日)までに私が元気でいることを心配してくれる人が存在するんだ。びっくりしてしまった。コレには毎回ビックリしているし、コレには毎回「岡野昭仁、好き!!!!!!!!!!!!」になっているが、この時ほど「岡野昭仁、大好き!!!!!!!!!!!!!!!!!」になったことはない。こんなに大好きな大阪城ホールで何をこんなに泣いているのかと思った。
大阪城ホールでは規制退場はなかったが、「オ゛゛゛ェ゛ッ゛゛゛゛゛;;;;;;;;;;;;;;;;」と座りながら突っ伏して泣いていたので、立ち上がることができなかった。規制ではないといえいちばん通路側の席であったため、私が立ち上がらないとほかのお客さんも出られない。グズグズの顔面を上げた。そこには私の前の席に座っていたお姉さんの笑顔があって、「すごくよかったよね!」と声をかけてくれて、頭をなでてくれた。アラサーになってもまったく知らん人が頭をなでてくれる事象、あるんだ…と思いながら、その手がメチャクチャ優しくて、「ほんとうに゛、゛よ゛か゛った゛~~~~~~~~~~」とまた泣いてしまった。隣に座っていたお姉さんは、「すごい盛り上がりましたよね!てか私、声とか大きくてうるさかったでしょう、すみません!」と言いながらティッシュをくれた。私はまた「゛来れ゛て、よ゛かった~゛~゛~~;;;;;;;;;;;;かっこ゛よ゛かった゛~~~~~~~;;;;;;;;;;;」と大泣きした。知らんお姉さんたちも「本当に!来てよかった!かっこよかったね!」と盛り上がった。一人で大阪を号泣する女になってなくてよかった、あのときのお姉さんたち、こんなブログは見ていないでしょうが存在に救われました。本当にありがとうございました。

もうこんな気分になったらやる事は飲酒である。これは気持ちのいい飲酒なので【アリ】だ。そこらのコンビニに入って片っ端から酒缶を開封して飲みまくりたい気持ちになったが、やめた。理性があるからである。理性があるので居酒屋に行った。
居酒屋に入った瞬間、「あー!おいでおいで!」と全く知らん人に言われ、カウンターにつき、そこから宴会が始まった。居住地も(西から、福岡・岡山・神奈川・茨城)そして年齢も歩んできた人生も何もかもちがう、本当の意味でのまったくの行きずりのオタクたちが、【ポルノグラフィティが好き】という点だけで大阪城ホールそばの居酒屋で酒をくみかわしてワイワイしているのはふしぎな気持ちになる。本当に楽しかった。

たのしかったです ありがとうございました


さて、このツアー中、岡野昭仁は、元旦の令和6年能登半島地震に対して言及していた。例に漏れず、この日もであった。
自身が、そして周りが被災された人もいる中で、今日ここに来られなかった人もいるかもしれない、自分が何もできないと思うかもしれない、ワシらエンターテイメントに属する人間も何ができるか考えたけど、それはライブをすることだと。ライブをして、全力で楽しんで、その活力で、被災地にエールを送っていきましょう、と。

私はこの日がこのツアー初めてではなかったし、この大阪公演の前の名古屋公演でも聞いていた。
しかし、この日に岡野昭仁のこの発言を聞いて、ようやく婆さんの死と向かい合えたんだと思う。自然災害と自分の個人的な過去の話を重ねて語るのもどうなんだよ、という話で実際に被災された方に大変申し訳ないが、私はあの日、「5年前に東京ドームに行ってよかったんだ」と思った。岡野昭仁の発言と、私の感情のなにか部分の歯車が合致した瞬間だった。
たぶんこの約5年間、ポルノグラフィティのライブに行っても、見ても、どこかで疎外感のようなものを感じていたのかもしれない。
でも、その感じていた疎外感を否定しなくていい、ありのまま存在するものとして受け止めて、このまま流していけばいい、と教えてくれたのはポルノグラフィティだった。
そして、置かれた状況を楽しんでいい、と教えてくれたのもポルノグラフィティだった。
大阪から帰ったら、つぎの土日に帰省して、墓参りにでも行こうと思った。次の土日は、奇しくも婆さんの53回目の月命日であった。

2月3日、墓に向かう途中で花屋に寄った。花がわからないので、どれもみんな綺麗だね…という世界に一つだけの花のような気分になり、予算内の手頃な花束をお願いした。ご自宅用ですか?と聞かれたので、ご自宅っていうかお墓に持って行くんですけど、と言ったら、店員のお姉さんは「好きなお花でお作りすることもできますよ!」と言ってくれたので、お言葉に甘えた。
婆さんは青とか紫が好きだが派手なものも大好きだったので、そんな感じの花を選んだ。人のことを考えて花を選ぶっていいな。前も言ったが、私は花のことを「花だなぁ」としか思わないくらいには情緒がないので、これらの花の名を覚えていないことが悔やまれる。

僕がここに在る事はあなたが在った証拠です

墓の前で、爺さんと婆さんにこの数日間、いや5年間の話をした。

婆さんが死んで、悲しかったこと。
あの時はさすがに、なんでこんな時に死ぬんや、と思ったこと。
不謹慎な孫であること。
そこから5年が経ったこと。
何回ライブに行っても、心の片隅に2019年9月のことがあったこと。
それが、この前の大阪城ホールに行ったライブで変わったこと。
たぶんようやく婆さんの死と向き合えられたこと。
前を向いているのかは分からないが、少しずつ、5年前とは違うところに向かって歩けていること。

墓には誰もいなかったので、自分の言葉で、声に出していうことができた。
自然と涙が出てきた。
メチャクチャ天気がよかったことに気づいた。この日の空は、こんなにも晴れ渡っていて、婆さんの好きな青い色をしていた。


さて、こんな婆さんと50年連れ添ったウチの爺さんだが、ここでも書いたとおり、カメラが趣味のビックリ筆マメジジイである。

爺さんは死ぬ直前までワープロで自伝やら日記やらを書いていた男だ。人は文字を得て歴史を残してきたし、それとともに文明は発展したし、私もおかげさまで僕らが生まれてくるずっとずっと前からの爺さんと婆さんの【人となり】を知ることができている。
歴史を残す上で多く使われてきた媒体は紙だが、うちの爺さんを見ていると“さもありなん”だ。学生時代に授業で「有史上、紙は信用できるけど(二千年の歴史があるので)、デジタルには歴史がないから信用できない」と言われ、「それはそうだなァ」と思った。博物館とかの世界ではようやくマイクロフィルムが少しずつ地位を持ちつつあるようで、おそらくデジタル媒体が信用を得て力を持つには、少なくともあと数百年以上かかるだろう、とのことであった。(※なん年前の話なので、いまはわかりません)
人は文字を得て歴史を残してきたし、それとともに文明は発展したらしい。歴史を残す上で、重要な位置を占めてきた媒体は紙だ。たぶん、デジタルの世の中になろうと、今後も人類の歴史は、その人の個人の歴史は、皮膚の下に流れる血は、紙を以て記録されていくんだろうな、と思う。

何が言いたいかというと、この先どれだけよっぽどのことがあろうと、私は多分ポルノグラフィティのことは今後も一生好きだと思う。未来のことなんて誰にも分からない。毎日は新しい。今日の自分と昨日の自分と明日の自分は別人だ。人間の細胞は、3カ月程度で入れ替わるらしいので、3カ月前の自分は他人だ。世界も、周りも、考え方も、価値観も、影響を受けてめまぐるしく変わる。

目の前にいる愛する人を、明日は愛していないかもしれない。あんなに好きではあるが、こんなに好きなアイドルたちを、明日も好きでいるかは本当に分からない。自分のことがあまり信用できないからだ。
迎合しないわりには、わりと流されがちな性分だ。すぐ見栄を張るし、つかなくていい嘘をつくこともある。
言いたくないことを言う日も、言われたくないことを言われる日もある。
人を嫌な気持ちにさせることを言ってしまう日も、言われる日もあるし、人の目を見てしゃべれない日も、私の目を見て心からの言葉を言われない日もある。思いやれない日も、思いやられない日もある。僕らは1人きりでは生きていけないことを何度でも気づくのに、自分の社会性がないところが一番嫌いだ。
今まで正しく生きてきたか、生きてきた道に自信を持っているのかと言われたら、すぐ頷けない。自分に自信がない。後ろめたい人生だ。


でも、生きてきたうちの二十なん年間、ポルノグラフィティを好きでいた気持ちも時間も全部本当だと、自信を持って言える。家族でも友達でも恋人でもないのに、まったく無関係でおそらくこの先も交わることがないはずの存在なのに、こんなにもなんでも変わってしまう世の中を生きてきて、その人生の半分以上、いや3分の2以上の年月をかけて、ただポルノグラフィティのことを好きで生きてきたからだ。
「推し」だとは言えない。そんなに力を持って、ポルノグラフィティのことを好きで、すべての力を注いできた自覚はない。
でも、少なくともポルノグラフィティを好きで積み重ねてきた時間だけは、嘘偽りがないと、自信を持って言える。好きになった時が旬なので、古参マウントはバカバカしいと思っているけど、ただただポルノグラフィティを好きでいた年月だけは誇りに思っている。この人生で費やしてきた時間への信頼と信用がある。だからこれからも、たぶん一生ポルノグラフィティのことが好きだ。



ポルノグラフィティ、私にとっての紙(かみ)なのだ。


最後になりましたが、元旦の能登半島地震で被災された方、大切な人が被災された方へお見舞い申し上げるとともに、被災地へ向けて尽力されている方々へ御礼申し上げます。

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