生命

「テラ」という言葉がある。「地球」「大地」の意味だ。ラテン語で「土(Terra)」が語源らしい。
土は月や火星などには存在せず、わが地球にしか存在しないようだ。地球の約30%が陸地だそうだが、約70億(80か?)の人類のみならず、その数を超えた多くの動植物の生命がこの土(テラ)に委ねられている。
そう考えると、土は、手に取ると一見サラサラと儚く飛んでいってしまいそうだし、水に触れると泥となって溶けてしまいそうだが、とんでもなく強くてたくましい。ボーイズグループ・祭nine.の赤色リーダーが「テラ坂頼我」なのも、彼が『ウルトラマントリガー』で演じたマナカケンゴが火星での植物生育を研究していたのも、““そうゆうこと””なのかもしれない。

専門的に「土」、いわゆる「土壌」とは、「岩が分解したものと死んだ動植物が混ざったもの」をいうらしい。月や火星には「土」はないのだ。生命は土の上で生きているというのに、水や酸素、生命がいないと、土は存在しないのである。生命は土がいないと存在しなくて、土は生命がいないと存在しない。なんかトンチみたいだなァと思った。
その土にも種類があるそうだ。地球上に存在する土は12種類に分けられ、その中でも我々が日本で目にすることのできる土は、黒や焦茶、黄土色、灰色をしている。その一方で、中国の黄土高原ではその名の通り黄色、アフリカでは赤、北欧では白い土が見られるようだ。小学校の頃、ALTの先生から「太陽は何色ですか?」と、黄色や白で太陽のイラストを描く文化圏の話を聞いたが、その授業で聞かなかっただけで、土を赤や黄色で描く、という文化圏も存在すると知った。

土は農耕と深い関わりを持つ。なので、「良い土」を掌握することは、権力者たちにも重大な意味を持っていただろうことは、想像に難くない。
奈良時代初期、中央政権が地方を把握するために各地域に地誌編纂を命じた、いわゆる和銅6(713)年『風土記』編纂の詔には、その土地の肥沃状態を記すこと、とある。実際に現在まで伝わる常陸・播磨・出雲・肥前・豊後の『風土記』に、肥沃について記されているのは『播磨国風土記』のみであるため、奈良時代、何を以て土地の肥沃としていたのかは分からない。しかし、豊かな土地、いや「土」を持つことは、古今東西を問わず重要であったことがわかる。
地球の30%は陸で、70%は海らしい。その中の何パーセントが、土と水の混ざった、“泥”と呼ばれるものなのだろう。

「良い土」は、ウマいらしい。かつては土を食べる文化も存在していたという。「良い土」にはマグネシウム、鉄分といった、ミネラルが存在しているらしい。マグネシウムには骨を作る成分があり、ミネラルはなんか……健康にいいらしい。知らんけど。


しかし、この世には13種類目の土が存在することを、ご存じだろうか?


京都発祥のラーメン屋、「天下一品」の「こってり」、通称““泥””である。

通称と言ったが、呼んでるのは私だけである。

泥を前にして大笑顔(だいえがお)の私

天一がうまいかまずいかと否かについては、良くも悪くも好みが分かれるから答えることができない。「天一に行ったことないけど行ったほうがいいですか」と聞かれたら「別に行かなくてもいいです」と答えている。そもそも、この世には天一よりもうまいラーメン屋はメチャクチャある。天一と同じ値段で、いや天一より安く、天一よりうまいラーメンを出してくれる店を何軒も知っている。しかし、人間が生きている限り、天一じゃないとダメな瞬間というのは存在する。
無味乾燥でつつましい生活を送っている私にも、ラーメンを食べるという、趣味とはいえないまでも「好きなこと」がある。以前も言った通り、食に関してはあまり開拓タイプではないが、家系ラーメンが好きなので、家系ラーメン屋に関してはよく開拓をするし、旅行をすれば旅行先で家系ラーメン屋を探してしまう。
ラーメンの話は長くなるのでまたの機会にするが、もう一つの趣味が「一定周期で天下一品に通う」である。だいたいは「たまには天一行くか」のレベルで、旅行先で天一があれば入る程度なのだが、花が空に伸びゆくように、海を越える旅人のように、3ヶ月にいっぺんのペースで、無性に天一に導かれる日がくるのだ。



近鉄奈良駅の近くの天一



正確に言えばメチャクチャに二日酔いの日である。


天一に限らないが、なぜ人は二日酔いの時にガッツリ系のラーメンを食べたくなるのだろうか。家系の気分の時もあるが、私としてはドロドロでザラザラでジャリジャリした、泥みてえな天一スープをカッ喰らいたい時が大部分だ。
大袈裟でもなんでもなく、自分が一番「生きてるかも」と思うのは、酒飲んで二日酔いで天一に行って、油でギトギトの床でお一人席に案内されながら注文し、出てきたスープを一口飲んだ瞬間である。
ありがたいことに精神以外は(今のところ)健康なため、普段は鼓動も、血も、なんも気にしない。しかし、二日酔いの体に天一泥が入った瞬間、心臓がポンプとなって、泥が血液に乗るのを感じる。スープ2口目で、五臓六腑に染み渡って、体内のどこかからエンジンを蒸す音が聞こえてくる。3口目で、指先や爪先までの全部に天一のスープが届くのを感じて「生きてんなぁ」と思う。直訳すると、「体、動いてんな」と思う。さらに詳しく訳すと、「私の体内に血液が流れてるんだ」の意味である。生を感じるのだ。

餃子に泥スープつけて食うのがたまらなく好き

「私、生きててよかった」と思った瞬間はまあまああるが、「私って、生きてるんだな」とここまで感じる瞬間は今までもこれからも二日酔いで天一を食ってる時くらいだけだろう。ドーパミンだかアドレナリンだかオキシトシンだかセロトニンだか知らんが、なんかそれっぽい名前の快楽物質が脳内に出てくるのを感じる。キミのことを死ぬほど好きになった時よりも、二日酔いで天一を食ってる方が心が嬉しくなって泣いている。
あんまり自分に興味がないので、こんなに酒なんか飲んで、雑に過ごしてるけど、私がどんなに自分自身を雑に扱おうと、私の細胞も、筋肉も、骨も、鼓動も、私のことを生かそうと頑張ってるんだな、と思う。だから体を大事にしなきゃな、と思う。細胞が頑張ってるんだからメインの私も頑張らないといけない。私だけど、私じゃないみたいな、自分の体の細胞との不思議な共同意識が生まれる。自分を大事にしよう、自分の体も心も大事にしよう、これが【自己肯定感】ってヤツか…と、しみじみ噛みしめるのだ。
人間は一生で20億回の鼓動を打つというが、20億分のうちのあと何回、この細胞とこの体でいられるんだろう?


とはいえ普通に二日酔いであることは変わりないので、当たり前のことを言うが、二日酔いで天一を食ったらメチャクチャ気持ち悪い。そもそも二日酔いで天一食いながら「体を大事にしなきゃな」と思うことがとんでもない矛盾なわけである。スープ3口目くらいで「私、生きてんなぁ」と思うが、それと同時に「私、何やってんだろう………」と思う。バカだからライスも餃子もつけてるので、余計に「私、何やってんだろう………」感が増す。
こうしてなんとか完食し、無表情で私の二日酔い・天下一品ムーブメントは完結するのだが、しかし、人間の体の細胞とかいうヤツはどうやら3ヶ月で全て入れ替わるという話を聞いたことがあり、つまり3ヶ月後の私は現在の私と別細胞の他人なので、ちょうど3ヶ月周期で“生”を感じに天一に行くのも納得できるのである。
あの時“一緒に生きてるね”と思った細胞とはけっきょく20億分のうちの何回シンクしたんだろう。けっきょくそんなにシンクしてないきがする。どんなに別の私になろうと、それでも【生を感じた】記憶だけがあって、事実、私は3ヶ月にいっぺんくらい【生を感じる】ために、コンディションを整えるのだ。この“コンディション”とは、もちろん万全に最悪なヤツである。久々に飲んだ酒でメチャクチャ気持ちよく最悪に酔うために、一切の晩酌を断つ。酒を断つと体というか、関節の動きが軽くなる。どこまでも歩ける気がする。顔色もよくなって、髪の毛もサラサラになった気がする。こんな健康になった体に酒を流し込んで、天一をカッ食らうという、不健康なことをするために健康になって、また不健康になろうとしている。
もちろん絶対こんなことをやめたほうがいいというのは分かってるんだが、あの「生きてるんだな」という瞬間のために生きようとしてしまう。ロウソクは消える直前の瞬間が一番輝くといわれるように、何かしらの限界状態に置かれたときの不健康行為が、何よりも生命をきらめかせるのかもしれない。


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