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大学院時代の金銭面での苦労

私には4つ年上の兄がいる。兄は地元の公立高校から国立大学に進学し、大学院・修士課程まで進んで、きちんと企業に就職した。

このように親思いの兄は、高校・大学とすべて国公立に行き、すべて自宅から通学することで、学費面で多大な親孝行をした。

一方、弟の私は「医学部に行きたい」と言い出したり、「博士になって研究者になりたい」と言ったりする、わがままで困った子どもだった。両親も相当、困りはてていたに違いない。

そのため私が、私立の早稲田大学に進学するときに母親に言われたこと。それは、

「これは大事な約束。あなたにはお兄ちゃんと同じだけの学費は出すわ。つまり、私立だから大学4年までね。でも、大学院までいくと不公平になっちゃうから、そこからの学費は自分でなんとかしなさい」

であった。つまり、私が修士・博士課程を経て、博士号を持った研究者になるには、学費面を自分の力でなんとかしなければならなかったのだ。

そこで、まず学部時代にバイト先に選んだのが「中学生相手の塾講師」だった。もともと憧れていたバイトであり、塾講師は給料がとても良いと聞いていた。そのため、即断即決だった。実際、仕事は身体的にかなりハードだった。毎回スーツを着て、30人くらいの中学生相手に授業をしなくてはならない。20歳そこそこの自分でも、「これはきついな」と思うほどだった。しかし、給料はとても良く、結果として、将来のプレゼンテーションの練習、そして、学生への対応方法を学んでいたのだった。

そうしてお金を貯め、大学院の修士課程に進んだ。研究室に所属が決まってすぐ、指導教員の常田先生と面談をした。私は「博士課程まで進んで、研究者になりたいんです」と強く自分の思いを伝えた。常田先生は「それなら、大学の研究室にある設備は十分ではないから、外研生として、産業技術総合研究所に行きなさい」となった。しかし、私が学費面で苦労していることについては、あえて触れなかった。先生の負担になりたくなかったからだ。

大学4年からは研究一筋になった。バイトを続けながら研究をしている友人も多くいたが、私は大学3年の冬にすっぱりとやめた。それは「自分は研究で生きていく」と心に固く決めていたからだ。バイトをしている時間の余裕などない。一刻も早く英語論文を出し、博士課程になったら、日本学術振興会(学振)の特別研究員に選ばれ、学費・生活費を工面する必要があった。

ただし、修士課程では上記のような制度はなく、日本学生支援機構の奨学金制度に頼るしかなかった。とはいえ、当時は「将来、研究職につけば、奨学金返済が免除されるらしい」と先輩から聞いていたので、問題はないと思っていた。それが突然、私の学年から制度が変わり、研究職についても奨学金返済は必要となってしまった。・・・ただし、新たに条件が加わった。それは「成績優秀と認められれば返済免除になる」であった。

研究生活のスタートからの話は、以前の私のnoteをお読み頂ければと思う。ここでは簡潔に記すが、大変運の良いことに、良き指導者に恵まれ、学部〜修士課程中に1報目の論文が掲載され、2報目も準備中であった。

これにより、日本学生支援機構から「成績優秀である」と認められ、修士2年間の奨学金は全額免除となった。さらに嬉しいことに、修士課程において、最も成績優秀な学生に送られる賞にも選ばれ(古賀憲司褒賞)、賞金として50万円を手にした。無論、この50万円はすぐに親に渡した。

その後は、学振の特別研究員DC2に採用され、博士課程を1年飛び級して卒業し、ポスドクでは学振の特別研究員PDに採用され・・・というストーリーが続く。しかし、そこには心の奥底に秘めていた苦悩と、人一倍、研究に邁進し続けなければならない事情があったのだ。

最後に。

博士論文の「謝辞」は自由に書いてよいことになっていたので、謝辞の1番最後に、両親への深い感謝の1文を書いておいた。これを母親にみせたとき、母親の目には涙があふれていた。

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