松尾 英明

小学校教員。教育関連の記事や書籍を発行しています。

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最近の記事

主体的参加の「市民マラソン大会」

今年の初め、勤務地の「新春市民マラソン大会」の応援をしてきた。 大人も子どもも同じ目線でスポーツに親しみ互いに応援し合う、とてもよいイベントだった。 地域イベントというのは、完全なる有志参加である。 やりたい人だけが集まる。 これがいい。 そして、各々がそこに向けて練習、調整をしてくる。 そのため、そこで得る成果も、基本的に団体のものではなく、自分自身のものである。 一方で、学校対抗や校内の「〇〇大会」の類は、有志参加とは限らない。 また、下手すると指導者同士の競争にな

    • 感激と感動はどう違うのか

      定例読書会での学びのシェア。 テキストはいつもと同じく、次のもの。 『修身教授録』森信三 著 致知出版社 テーマは第2部第9講「情熱」。 P.338の1行目、次の文章が話題の中心となった。 ================= (引用開始) すなわち感動は深くして内面的であるが、感激はこれに比べれば浅くて外面的なものと言ってよいでしょう。 そもそも真に深い感動というものは、外に現れるものよりも、内にこもるものの方が大きいのです。 (引用終了) ==============

      • 音読の効能、読み聞かせのもつ力

        前号に続き、国語の実践について。 何だかんだ、どの年でも国語の実践には力を入れている。 国語の力こそが全ての学びのベースとなるからである。 「クラス会議」のような話し合いも、言葉を伝え合う力があってこそ生きるといえる。 「聞く力」はまさに国語科を中心に育む力である。 前号でも紹介した神戸の多賀一郎先生からの学びで、一つ大きな気付きがあった。 それは「音読」の重要性の再認識である。 音読は、再び脚光を浴びてきている。 その様々な効能については各方面で言われているのでここで

        • 国語の授業で言語感覚を鍛える

          昨年末、久しぶりに一参加者としてセミナーに参加してきた。 今回は「せっかくの自分の学びをシェアする」という発信の原点に立ち返って、その時の学びについて書く。 国語と道徳の授業についてである。 講師は、多賀一郎先生。 今回の内容は、次の著書に詳しい。 『ICT時代の国語教育の考え方・進め方』多賀一郎著 黎明書房 国語の先生の本だけに、言葉に一切の無駄がなくすらすらとすぐに読める。今回のテーマは「言語感覚と言語姿勢を育む国語授業」である。 言語感覚とは何か。 次の3つの言

        主体的参加の「市民マラソン大会」

          学級は得意の相互提供でよし

          昨年度、小学館のスタッフとEDUPEDIAの学生スタッフの方々が教室参観に来て取材をしてくれた。 その時のEDUPEDIAの記事が2本アップされている。 この記事の取材があったのは5月末だが、この頃既に学級の素地はできている。 他も他市からの初任者の参観や、教職大学院生や現役教員の参観等もあった。 よく学級参観をしてもらったせいで、子どもたちも慣れてきて、参観者とすぐに仲良くなってしまう。 子どもたちのコミュニケーション能力の高さが見られる。 初任者の方が参観した際、放

          学級は得意の相互提供でよし

          聞き上手な集団は話しやすい集団

          昨年に出した次の本について。 『学級経営がラクになる! 聞き上手なクラスのつくり方』学陽書房 https://www.amazon.co.jp//dp/4313654836 学級経営において「話が聞ける」。 この大切さについて、どれぐらい肚落ちしているかである。 昨年、他校や出版社、企業等からの参観者が複数あった。 見てくれた方は誰しも子どもたちの「話の聞き方」について言及してくれている。 子どもたちが話が聞けるということは、即ち子どもたちが話ができるということでもあ

          聞き上手な集団は話しやすい集団

          「かわいそう」の上から目線を問う

          前号に続き、熊出没に関する問題からの気付き、雑感。 熊の駆除に対し、役所等へ一部理不尽なクレーム電話があるという。 「熊がかわいそうだ」という。 私は野生の熊に出遭ったことがない。 だから、その真の恐ろしさについては知らない。 知らないが、海におけるサメやシャチなどと同様、確実に出遭ってはいけない危険な生き物であることはわかる。 少なくとも、様々なアニメやグッズのキャラで見るような「だらけて間抜けで可愛い生き物」ではないことだけは間違いない。 何なら、普通の中型犬でも危険

          「かわいそう」の上から目線を問う

          「熊出没」から学ぶ「互いの領域を侵さない」心得

          今回は、働き方改革などではなく、ちょっと目先を変えた話。 昨年度から、ちょくちょく話題になっている、北海道や東北の熊出没のニュースが気になっている。 熊が里に下りてきたり町中に出没したりするので、これをどうするかという話である。 ちなみに千葉県は本州で唯一、熊の出没が未だにない県らしい。 しかし私の住んでいる地域でも、イノシシやキョンの繁殖が同じように問題化している。 朝のランニングコース上でも、最近はイノシシに出遭う確率がかなり高い。 (特にウリ坊に出遭った時は、近くの

          「熊出没」から学ぶ「互いの領域を侵さない」心得

          現場が本当に助かる教育施策は「なくす」「へらす」のみ

          前号で、「善魔」について記事を書いた。 昨年11月4日付の産経新聞の社説に「善魔」についての記事が載っていた。 遠藤周作氏の言葉ということで載っていたが、調べると作家の岸田國士の「善魔」という小説が1951年に発表とのことなので、こちらがオリジナルなのかもしれない。 この新聞記事では、政府の様々な施策を「善魔」として批判している。 記事中では、以下のニーチェの言葉を引用している。 「悪意のように見える不遜な善意もある」 そう、悪意のように「見える」のである。 しかし、それ

          現場が本当に助かる教育施策は「なくす」「へらす」のみ

          悪魔より性質の悪い善魔

          昨年10月28日、中日新聞の次の見出し記事が気になった。 参考:里子や養子が「生い立ちの授業」で悩まないように 名古屋市が学校に配慮求める文書 (中日新聞) 購読している訳ではないので本文は読めていないが、恐らく 『不親切教師のススメ』第7章「子どもの家庭を覗かない」で書いたことと類似の内容ではないかと推察される。 あらゆる家庭の事情に配慮し、傷つく子どもがいる可能性のある活動は実施を考慮すべし、ということである。 要は、あらゆる一斉学習で最も気を付けるべきは、個の事情

          悪魔より性質の悪い善魔

          応援を「競争」すべきか

          学校によっては、5月が運動会シーズンである。 間もなく4月の職員会議で運動会について提案しなくてはならない人も多いだろう。 そういう訳で、少し先取りして運動会についての記事。 運動会はその多くが運動能力の「競争」をベースとする。 身体のパフォーマンスを競い合うことが中心の行事である。 勝敗をつける場面が多くなるのは必然である。 さて、かつて「徒競走で全員手を繋いでゴール」というものへの批判が巻き起こった。 これは確かに、おかしいことである。 なぜならば「競走」が、その字の

          応援を「競争」すべきか

          自らの権利を勝ち取るために

          世の学校、特に中学・高校において、生徒の自由拡大の気風が起きている。 面従腹背の状態より、はるかに望ましいことである。 自由を求めることで、初めて責任について真剣に考え始めることができるからである。 その過程において、仲間との協力、周囲の理解を得ることの重要性も学べる。 それは、甘えからの脱却機会ともなる。 「クラス会議」で求めている力そのものである。 自由の権利を拡大して欲しけど、責任を負う気はない。 これでは到底、容認することはできない。 組織の責任をとる立場にある側

          自らの権利を勝ち取るために

          13年目を迎える南相馬にて

          今回も「第51回被災地に学ぶ会」に参加させていただいた。 明日であの日から13年目を迎える南相馬の地は、晴天の雪景色だった。 この日のボランティアセンターは、センター長が重い体調不良のため不在で、参加団体も我々のみという今までにない状況でのスタートだった。 これまで13年間、被災地に完全に寄り添って支え続けてこられたセンター長には、頭が下がるばかりである。 今回の依頼は、ご自宅の清掃と復旧とのこと。 高齢の方がお一人で数年ぶりにご自宅に戻られるとのことで、荒れてしまってい

          13年目を迎える南相馬にて

          ルールに「自分くらい」も「ちょっとぐらい」もない

          前号に引き続き、自由と権利、ルールについて。 ちなみにメルマガ上では、スポーツの日に書いた記事である。 この日は 「スポーツを楽しみ、他者を尊重する精神を培うとともに、健康で活力ある社会の実現を願う」 と定義されている。 勝ち負けに注目されやすいが、本来は他者尊重の精神こそがスポーツの根底にある。 そこでスポーツでは、「線引き」がはっきりしている。 陸上でも球技でも何でも、ライン上の「ここから先はアウト」というのがある。 「少しぐらいなら出てもいい」ということはない。 明

          ルールに「自分くらい」も「ちょっとぐらい」もない

          常に有限で条件付きの中の自治と自由

          クラス会議や自治的学級づくりにおいて、よく聞く悩みについて。 様々なものがあるが、要約すれば 「子どもたちをなるべく自由にして、意見を尊重したいが、それは怖い、うまくできない。」 というものである。 この意見は、一面間違いなく正しい。 だからこそ、自治的学級づくりを志向する際、ここに悩むのは必然である。 子どもに無条件な「自由」を与えて「意見の尊重」を無限に保障すれば、教育は一切成り立たなくなる。 一番大切な結論を先に述べる。 何でも「無条件」「無限」では、ダメなので

          常に有限で条件付きの中の自治と自由

          学校教育で「芸術作品」を評価できるのか

          「学級づくり修養会HOPE」で話題に出した本。 『今日の芸術 時代を創造するものは誰か 新装版』 岡本太郎 著 光文社文庫 https://www.kobunsha.com/shelf/book/isbn/9784334793111 かなり前に読んだ本だが、改めて読むとまた発見があり、話題に出した。 この理由は、ちょうどこの頃、夏休みの「宿題」の在り方、各種コンクールへの出品について、再考していたからである。 また、学校現場が10月前後、「図工作品展(造形展)」の真っ只

          学校教育で「芸術作品」を評価できるのか