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クライマックス

小さなころから、傍にいたイタリアオペラ「Madama Butterfly」

どんなお話かと言えば、日本現地幼妻とお気楽アメリカンとの、ひとときの戯れ。やりたい放題の男は幸せに、現地妻は見捨てられ子どもも奪われて失意の元に自死という身も蓋もないチープなお話である。
身分格差。ロリコン。女性蔑視。人種差別。白人男性の横暴。とまぁ、「人権軽視のロイヤルストレートフラッシュ」とでも言おうか。

このオペラ中の蝶々さんとピンカートン(お気楽アメリカン)の

「愛の二重唱」Bimba dagli occhi pieni di malìa

という、本編の中でも蝶々さんの超有名なアリア「Un bel di vedremo」と並び特筆されるほどの重要なシーン。

この最後の方
vien, Ah! vien! sei mia!(2人の掛け合いが最高潮のファルセット) の後、2人のロングトーンに被るように、「ジャーン」とオーケストラが鳴るところがある。

この「ジャーン」は、愛の二重唱のクライマックスである。胸が高まる。

プッチーニの甘いメロディラインは嫌いではない。というか、彼のメロディを不協和音や前衛的な違和感、と言う形で表現する人はおそらくほとんどいないだろう。そこには和声技巧的な「美しい」しかない、という事実は、多くの方が全面同意してくださることだろう。
そこにあるのは、「好き嫌い」だけだ。メタリカが好きな人もいればシドビシャスが好きな人もいるし、三山ひろしが好きな人もいて、プッチーニの音楽なんて「ケッ」、または「つまらない」と表現される方がいるのは知っている。そこはモーツァルトの音楽みたいなもので。(と、モーツァルトがあまり好きではない私は思う。)
でも、美しさは、認めるだろう。(え?だめ?

La bohemeもToscaもGianni schicchiもFanciulla dell'westも、プッチーニさまの作り出す音楽は、とにかく美しい旋律に溢れている。鼻歌としても向いている。

歌は美しいのだ。
歌は。

しかし。

彼の作るオペラの台本はまぁ、なんか、うん。アレなんである。ボエームも、あんれまあ。ジャコーザとイッリカの責任もあるし、そもそも原作者のジョンと劇作家のデーヴィッドがほぼ原因なんだけど、プッチーニは、なんでこれを選ぶかな、という。しかも、なんでこんなに、美しく作ってしまうかな、という。なまじっか、こんなに優れたオペラになった故に、この台本が世間に広く知れ渡ることになってしまったではないか。

アレ、と言うのは、具体的には、現代との人権感覚の狂い、ということだ。
1800〜1900年初頭、当時の白人男性のprivilegeは現在よりも遥かに確固たるものだったろう。当時の芸術を今から見ると、人権感覚が違いすぎてクラクラする。

若き日の私は、

自分が陥る可能性のある創作物ことに、敏感だった。

それはあらゆることで、例えば

冴えない庶民の女が、玉の輿に乗る
誰かが私の秘められた才能に気づき、開花させる
高額の宝くじに当たる

とか、まぁあり得ないがポジティブなものから

突然貧乏になり、路頭に迷う
戦争になり、慰安婦にさせられる
日本人というだけでガス室に入れられる

とか、ネガティブなものも。

アジア人という、世界的には、体躯に恵まれた方ではない人種であり、特別に恵まれた境遇の生まれでもなく、凌辱され、妊娠する可能性のある体であることは、私を酷く小さい存在のように思わせた。体全体についた枷のようなもので、生涯、この体と付き合っていくのだという、ある意味で「世界の奴隷」のような感覚。

Miss Saigonをエンターテイメントとして全く楽しめなかった。東洋人の現地妻の話なんて、ホント碌でもない。金銭的に恵まれぬさえない東洋人の女である私は、いつか陥らぬとも限らないと危機感を持ち鑑賞する。ベトナムであろうが日本であろうがそこに違いはなく、他人事としては全く捉えられなかった。そういう事実があるということを広く知らしめるためなのかもしれないが、それならもうちょい脚本や演出を工夫してほしかった。こういう悲劇的な娯楽は、「自分が絶対に悲劇の主人公の立場になることがない」という確固たる事実がない限り、腹の底からは、楽しめない。(ちなみに「おしん」も嫌だった)

しかしこれは、現代の人が作ったお話だから、まだマシだった。問題提起の目的はあっただろう。

Madama Batterflyのロクでもなさは、この比ではない。何せこの時代の西欧白人男性にとっては、このようなことはごく普通のことだったという事実、人権は白人男性にしかない時代の感覚を、オペラの形で今も触れることができるのは、逆説的に素晴らしいことだと思う。蝶々さんは、劇中で虫ケラのように扱われるし、実際、西欧男性にとっては、有色人種それも女性などは、虫ケラ同様だったことだろう。ただの白人にだけ向けたエンターテイメントでしかなく、そこにいらぬ配慮は不要だ。とことん、白人男性が楽しめればよいだけだ。
プッチーニ自身もこのオペラを三流国の有色人種がまさか経済発展して白人男性と同じように楽しむ時代が何年後かに来るなんて、思ってもみなかったに違いない。

プッチーニが特別なワルなのではない。あの時代は、そうだっただけだ。今の感覚で過去の文化を簡単に評価することは、意識的に避けている。だからよい。

というか、今回は、この話じゃない。
閑話休題。

愛の二重唱はピンカートンが蝶々さんを口説き、服を脱がせ、交わる歌であり、最後の「ジャーン」は、彼が射精した瞬間を表す、という説がある。実際そういう演出もあった。

なるほど。

その読みは、あながち間違いでもなさそうだ。
ハリウッド映画でも、日本のドラマでもよいが、「男性が射精した時を最高潮」とする描写は少なくない。

その瞬間をもって、ハッピーエンド、みたいなこともある。

恋人になった瞬間を表すこともある。

「結ばれた」ということもある。

その昔、「When Harry met Sally」という、主役のメグ・ライアンがあまりにもキュートだったのが印象に残っているだけの映画があったが、これも、セックスが主題にあったと思う。

別に私がフリーセックス推進派というわけではないけれど、あれもこれも、セックスを基準に愛だの恋だの語られると、なんだかなぁと思う。

この「ジャーン」が射精か。
オーケストラの何が使われているのか、銅鑼かシンバルか、ティンパニか、詳しくは知らないが、この「ジャーン」をもって、心を鼓舞し、ドーパミンが放出される。男性にとって、この瞬間と言うのは特別なことなのだなとつくづく思う。

だが。
男性は、射精して終わりだけど、ごめん、女性は、ずっと、炭火のように、快感が続くのだ。ジャーン、で終わらないんだ。

男性はたぶん、強く刺激し続けると痛くなると思うけど、(知らないので、違ったらすみません)女性は、これまたたぶんだけど、ずっと気持ちよくいようと思えばいられる。

ずっと心地よい。

射精の前後の違いが激しすぎる男性性と、
ずっと快感が持続する女性性と。

この「射精的快感」が含まれる芸術作品、つまり、ある最高潮をエンディングに持ってくる作品は意外にも多く、多くの文化芸術は、長らく男性が男性のために作ってきたものなのだなぁと、思う。男性はその最高潮のために、頑張って生きるし、なんなら命まで投げ出す。

そして、女性の方もそれに慣れてしまって、当たり前と思うようになっている。

でも、人生には、クライマックスなんてない。いや、あるだろうけど、快感は何度もあるし、快感後の人生も大切だ。

映画や舞台など、あまりにもある一点を幸せの尺として描いているものが溢れ過ぎて、私の好みの物語の方が少ないなと。

🔸

Gone With the Windの、レット・バトラーが突然、燃え盛る炎の中、馬車から降りてスカーレットを置いてきぼりにするところとか、第二次世界大戦の神風特攻隊とか、いや、マンガとかにある、「俺がここで相打ちになったとしても敵を倒さねば」みたいな描写は無数にあるが、何一つ、共感できない子どもだった。今もだが。

男性が、命を省みず、敵と戦い、散る。それを美しいと賛美する。確かに、その人の生涯は勇ましくそこで終わるから、美しいかもしれぬ。

でも、実は、この魑魅魍魎の跋扈する世の中を生き抜く方が、しんどいことなのかもしれぬ。死ぬ方が楽だと思う時がある。(だから、自死する人が後を立たない)

男性は、後先考えず、「ジャーン」に突っ込む。
この前「Born on the Fourth of July」をうっかり見てしまったが、実にドロドロしていた。これも、後先考えずに勇ましく特攻する話であった。(そして、その後、生きる苦しみを味わう男の話だった。)

そう。
特攻などで残された方、生きる方は、地べたに這いつくばって、血を吐きながら、それでも死ねず、生きるのだ。

体を蛆に蝕まれても、他人から石を投げられても、軽蔑されても、生きるのだ。

もちろん、辛さのあまり自死を選ぶ人もいるだろう。

でも、死ねない人というのも、いる。母は、大切な子どもを残して死ねないんだ。
威勢のいい男性は、残されたもののことを考えずに、特攻していく。残されたものは生き地獄だと、想像もせずに。

エクスキューズだが、神風や戦地で命を落とした人たちのことを指してるのではない。娯楽として、「俺は死んでもこいつを倒す」みたいにして戦うシーンがこれだけ世の中に溢れているという風景は事実としてあり、

それを好ましいと思う消費者&その消費者をターゲットにモノづくりをする人と、

神風で命を落とした人たちとは、

必ずしもイコールではない、と考えている。それだけだ。

生きるという、なによりも辛い時間の過ごし方を、ジャーンという射精の一瞬で、桜が散るように、花火が夜空に消えるように、それを美しいと思う性が作る娯楽。一昔前のハリウッド作品のように。

デリカテッセンみたいな、何も起こらない映画が好きだ。ずっと愛撫し続けるみたいな。そんな作品が好きだ。

「いやいやえん」とかもほぼなにも起きない物語で、よかった。「キャベツくん」も、射精的絵本ではない。お気に入りだ。

🔸

結婚式はしなかった。人生最高の場面だなんて、誰が仕掛けたのか知らないけれど、そんなものに乗っかるなんて真っ平ごめんだ。結婚なんて、した後の方が肝心である。ホテルで大人数招いてドレスを3回変えるとか、レッドカーペットを新婦の父親が手を引いて新郎に渡すとか、悍ましい連続だ。
ご祝儀も意味不明だ。お返しなどいらない。なんのためのご祝儀だ。それを言うと香典返しも馬鹿げてる。
結婚式をしたい人のことを揶揄しているわけではないので悪しからず。
ま、とにかく、いつまでも新婚当時を忘れずに、お互いに尊重しあって、長く続く家庭を築くのが、最も良い。

「ジャーン」を追い求めない人生を好む私は、少数派なのだと思う。

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