見出し画像

「津波はにくいが海は宝」 亀山輝雄さん

集落の世話役として奔走

 漁業をなりわいとした石巻市渡波の佐須浜は、津波で大きな被害を受け、亀山輝雄さんは避難した人たちの世話役として奔走した。これまで震災を語ることを避けてきた亀山さん。風化が心配される中、「あの時は泣いだ。何にもなくなって、これからのことを考えると涙が出た」と向き合った。

 3月はカキの出荷も終わり、来季へ準備し始める時期。亀山さんは13年前、湊地区にあった歯科医院の診察台に乗った時、大地震に遭った。機器が倒れ、歯科助手の女性が泣く院内で亀山さんは言う。「津波来っど」。

今も海に出る亀山さん

 車で急ぎ佐須に戻ると、風景が一変。岸壁が下がってなくなっていた。自宅の妻に避難を促し、自身は浜に行って漁具を片付け、携帯ラジオを持って避難を開始。数日前の津波警報では船を守るために沖に出したが、この日は異常さを感じて仲間に「船はいらねえど」と声を掛けた。消防団の騒ぐ声がして海を見ると、真っ黒いものが迫っていた。

 数人で竹が茂る山に逃げ込んだ。いとこが「家やられだ」と言い、頭が真っ白になった。夢中で道なき道を進み、集落の奥の方にある自宅近くに下りた。家々はがれきの山に変わっており、海側へ行く道がふさがれていた。

 夫婦で努力して持った自宅は残ったが、中は壊滅的。「集落がなくなるなんて聞いたことあるか」とがくぜんとした。「おっかー、おっかー」と探すと、集落のさらに奥で人の声。妻を含む5、6人が火にあたっていた。

 その晩は大きな被害をまぬがれた隣の家に世話になった。翌日、避難所の洞源院を目指すことになり、消防のホースを杉に結んでロープ代わりにし、一山越えた。

 洞源院は400人ほど避難していたが、佐須の人はいない。近くのサン・ファン・パークに行くと、佐須の人らが駐車場に止めた車にいた。顔が利く亀山さんは施設と掛け合い、中に入れてもらえるようにした。

妻のハマ子さん(87)が避難した辺りには石碑が立つ

 亀山さんらはしばらく洞源院に滞在。毎朝、寒さをしのげるよう被災をまぬがれた小型重機でがれきを集めてドラム缶にくべた。寺の避難生活は不自由なかったが、時々の葬儀は知人だったりして気分が良いものではなかった。早々に自宅の修理を決めた。

 船を調達し、翌年に残った種ガキで養殖も再開。この間、漁業者自らによる漁港のがれき撤去の仕事も世話した。「津波はにくいが、農家をやるわけにいかない。太平洋銀行とよく言ったもので、稼ごうと思えば何とでもできる海は宝」と言う。

 佐須浜に犠牲者はいなかったが、43戸の家は数えるほどになった。人が減り、行政区長を震災後から続けている。妻が避難した辺りには、支援で「てんでんこに逃げ命を助けよ」という石碑が立った。安全な場所に住まいが移るなどして市の防災訓練への参加も減り、伝承は容易ではない。それでも土地に愛着があり、「今まで以上にいい集落になれば」と願う。【熊谷利勝】

最後まで記事をお読みいただき、ありがとうございました。皆様から頂くサポートは、さらなる有益なコンテンツの作成に役立たせていきます。引き続き、石巻日日新聞社のコンテンツをお楽しみください。