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「楽観的考えがあだに」 大竹伊平さん

屋上避難とっさの判断

 東日本大震災の発災時、石巻市南浜町三丁目でクリーニング店を営んでいた大竹伊平さん(65)。店舗が津波に襲われ、屋上に避難したことで一命を取り留めた。「偶然助かっただけ。津波が来るとは思っておらず、楽観的に考えていたのがあだになった」と話す。

「偶然助かった命だけど、これからも前向きに生きたい」と話す大竹さん


 震災後は避難所から仮設住宅、復興住宅へと住まいを移し、現在も地元でクリーニングの営業をしながら生活している。「津波は甘く考えてはいけない。教訓が胸に刻まれている」と災害への備えを痛感している。

 大竹さんは当時、石巻駅前にいた。突然激しい揺れに襲われ、その直後に車のラジオから「大津波警報」の音声が聞こえてきた。「その時はかなり楽観的に考えていて、津波が本当に来るなんて思っていなかった」と振り返った。そのまま南浜町にある店に戻った大竹さんは、周囲に誰も人がいないことに気づく。聞いたことのない地響きが始まった。

 急いで鉄筋コンクリート造2階建ての店舗屋上に上がると、海側から黒い壁のようなものが向かってくる。「もう逃げられない、間に合わない」と考えた大竹さんは、そのまま屋上で津波を耐えることになった。周囲にあった木造家屋が簡単につぶれ、それがぶつかった。その衝撃で落ちたら助からないと思った大竹さんは、フェンスにロープで体を縛り、手すりを持って耐え続けた。

自宅と店舗のあった南浜町三丁目(平成27年3月11日撮影)

 幸い、屋上まで津波は到達せず一命を取り留めたが、その場から移動することはできず一晩過ごした。途中、流される屋根に乗っていた年配の男性を引き上げ、2人で過ごした。その人は朝になって水が引くと、どこかに歩いていったという。

 その後、大竹さんは自衛隊のヘリコプターに助けられ、石巻赤十字病院で手当てを受けた。避難所となった学校施設などを転々し、仮設住宅に入った。雇用していたパート従業員は全員無事だったが、同居していた母親の昭子さん(当時78)は避難途中に行方不明。震災から数カ月後、遺体安置所で対面した。

 震災直後の苦しい生活を経て現在は南中里の復興住宅に暮らし、クリーニングの仕事も再開した。「いつもなんとかなると思って前向きに生きてきた。母の死など悲しいことはあったが、今ここにいられるのが何よりの幸せ」と語った。

 生まれ育った南浜地区は復興祈念公園となり、形成されていた住宅地の面影はどこにもないが、大竹さんは子どものころ「松林に秘密基地を作り、南浜には思い出が多くある。どこに何があったか、今でも思い出す」と懐かしむ。

 「災害時に親せきや知り合いで集合場所を決めておくこと。子どもたちは大人の話を聞き、とにかく避難することが大事。ラジオの情報収集も欠かせない」と震災の教訓を伝える。

 平穏はいつ壊れるか分からない、だからこそ、大竹さんは明るく前向きに生きていく。【渡邊裕紀】

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