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心の距離を守るーさまざまなケースで励まさない勇気をもつ

ここ最近下っ腹が出ている。米と肉も食べていないのに、どんどん太るのは歳のせいか。何かの病気か、ストレスか。ダイエットとは言えないまでも、会食が続いたら食べる量を減らすなど体型を維持しているのだが、私はそれを他人に知られることに強い抵抗がある。「体重」よりも「体重を気にしていること」を悟られないように徹底している。

「カラダ」は私のものなのに、「カラダ」について他人に干渉されたり暴露されたりするのは、パーソナルスペースの侵害にあたる。ボディタッチはもちろん、歩く道を通せんぼすることも、悪ふざけでカンチョウをすることも、行動や服装を強要することも、〈私の芯まで喰われる〉脅威に感じる。思春期の女子たちはトイレに行くのも群れをなし、おそろいのファッションに安心感を得たりする。「カラダ」を通して自他の境界線を撤廃していく。「女子の輪に入れない」一部の女子はある意味で潔癖で、警戒心が強いのだが、「私を守りたい」裏には「壊れそうな私」を感じやすい理由が個々に秘められているようである。

「励まし」の言葉も、グッと距離を詰めて心を踏みつけることがある。悩みを話すと「それはあなたに与えられた試練だよ」とか「辛いことを乗り越えて強くなったね」とか「騙されて勉強になったね」とか、隠された核心を見透かしたように、カラダを超越した神の立ち位置で物を言う人がいる。かと言って、カラダを共有するかのように「私もそうだった」と個人の悲しみを奪い取る図々しい人もいて辟易する。

カウンセリングでは一般的な対応かもしれないが、「辛いです」には「辛いですね」と気持ちを受け止めるのが、ひとまずの距離感としては正しいと思う。アドバイスも励ましもしない勇気をもってほしい。相手の気持ちに踏み込むことが、弱っている人間にとってどれだけ「加害的」であるか周知されるべきだ。SNSの恐ろしいところは、カラダをもたない多くのヒトが、カラダをもたないからこそ一体感をもって「攻撃」し「炎上」することの陰で、「励まし」によって相手を「所有」したり「侵略」したりする〈優しい拘束〉が容易く飛び交うところにある。

毒になる母が娘を支配する構造にも似ている。「あなたのためよ」は「自分のため」でしかない。元々母の胎内に宿った命が、同じ女性というカラダをもち生まれてくるために、距離感を見失ってしまう。「嫌だった」という娘に対して「嫌だったね」と受容できる母親がどれだけいるだろうか。母親から体型、髪型、服装、月経、交友関係を干渉されることがある程度は仕方ないとして、どれだけ娘のパーソナルスペースが守られるかが重要になってくる。もしも健全に守られなかった場合、他人と共有する自分のカラダを解放するための終わりなき戦いに奮闘する呪いにかけられるだろう。

子どもが困った時に、学ぶ権利を剥奪しないことも、教育の場では当たり前になってほしい。先回りしてやってしまわず、どこまでできて、どこまでできないのが観察して、最低限のアシストをする。低学年の教室でよく見られる「できる子ができない子を教える」風景は、教師が楽をしたり、できる子が満足感を得たりしているなかで、「できない子の学び」が子ども同士の曖昧な距離感の中で踏みにじられていることがある。「教える」ことは簡単なことではないのだ。もちろん教える側の子どもの戸惑いもあるとして、ここでは割愛する。

他人と接する時は心の距離感を大切にする。良かれと思って励ましたり共感することが、弱い立場の人間を支配することになる。その構造が癖になってしまうと、自己開示に抵抗が生まれ孤立することになるか、支配されなければ決定できない人格を形成してしまう。一見気の利かないように思える「困った」に対する「困ったね」が、核心を傷つけることなく寄りそい理解を示す最初の一歩になるのだ。

私が太っている話が、ここまで広がってしまうとは。だから、痩せられる方法はご教授いただかなくて結構です。

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