触れること

以前Twitterをやっていた頃、なぜかセックスレスの相談を受けることが多かったこと、実生活でも定期的にその話を打ち明ける人が登場することもあって、雑記として「触れること」についてまとめておきます。どこか別で出すかも、という内容です。(長いです)

セックスは介護に匹敵する


私には法律事務所で働いていた経験があり、離婚や不貞行為(不倫のこと)、男女トラブルを間近で見ることがそこそこあったわけですが、こういう分野は実際に揉めた原因ではないとしても、ほんのりとセックスレスが争点となることがありました。不貞行為の背景にセックスレス、離婚原因の一部にセックスレスがある程度で、実際の交渉の有無が離婚の引き金になるケースは少なかったです。ただし、法律分野関係でライターをしていると、それなりに離婚も不貞行為も依頼数は安定しているので、この話題は法律相談に多く、「人生のテーマ」でもあるのでしょう。自身のセックス経験と、垣間見たトラブルの現場、人から聞く実話を総合すると、これは本当に難しいテーマです。

特に離婚トラブルの最前線にいた経験からすると、セックスは夫婦関係においてイヤらしいとか、興奮するとかそんな生易しいものではなく、「ケア」として必要になることが多いと実感しています。セックスは家族以外に外注できるという意味でも介護に匹敵するわけです。

家庭が社内と同じになる問題点


おそらく、夫婦関係でセックスを拒絶する場合、悪感情が背景にある(いわゆる性格の不一致)があったり、そもそも結婚という社会制度上のゴールを達成したら、恋人時代のようにいちゃつくことなんて難しいし、寝たくないという人が多いのも間違いないのですが、夫婦関係からセックスが無くなると「本物の他人」に戻ってしまうので、家庭が社内のようになると感じます。

上司と部下、あるいは同僚、強権的な同族経営などのようになり、家事や育児といったタスクの処理班になります。家族とは戸籍に縛られた運命共同体(ロマンチックな意味じゃない、社会制度上の縛り)なので、セックスがあろうがなかろうがタスクの処理班でいることを最優先するべきですが、会社ってそんなに居心地良いものじゃないですよね。
とっととお金を稼ぐための場所であり、帰りたい場所とは言い難いものです。もちろん、仲良し社員同士で生きていく心地良さもあるので、夫婦双方の同意の下ならとても良い暮らしでしょう。

なにかに触れないと、人は狂うときがある


会社から会社に帰る、というのは人によっては結構きついものです。タスクの処理班の一員としてのみ生きることは、心の内側がぽっかり空いてしまうのです。私が好きな小説家の故・車谷長吉は結婚前女性がいない寂しさを、木の人形で紛らわせたと書きました。ある知人男性は離婚をきっかけに着ぐるみ人形を集めるようになり、ある既婚の知人女性はジャニーズの人形を集めています。

共通しているのは、日常生活の中で性的な意味で他人に触れていないという事実です。多くの単身赴任族が、心の平静を欠きギャンブにハマったり現地に恋人を作る様子もOL時代に見ていました。知人の父は、単身赴任先で10年間関係のあった現地妻がおり、今となっては本妻です。それだけ時間も肌も共有してしまったのでしょう。

家族がいる、子どもがいる、社会人としてそこそこのポジションもある、という他者からの評価だけで生きていけるなら、セックスがないぐらいで離婚や不貞のトラブルなんて起きないわけです。人間はもっと生臭いものです。

生身のいきものに触る、触られるという行為には強烈な癒しがあります。だから真光のような手かざしの宗教が成り立つわけです。私には、頚椎骨折と脊髄損傷などの交通事故による損傷で寝たきり状態だった父を、病室で撫で続けた時期があります。痛み止めが効かなくなり眠れない状態でも、生身の人間に撫でられ続けると、眠ることができていました。私が宗教家だったなら、父は私の手には「神通力」があると思い入信していたかもしれません。

多くの人は触りたいし、触られたいと願っています。
入れる、入れられる、イク、イカないなんて生易しいものではなく、一定数の人は他人に触ったり、触られたりしないと気が狂うと言っても良いでしょう。たとえ狂乱にすら見えてしまうような人形という方法を使っても、私たちは何かに触れずにはいられません。触れられるのなら初音ミクとだって結婚します。

わたしを拒まないで


自分を拒まないで触ってくれる、触らせてくれる赤の他人が欲しいと、真面目に言えないからこそおかしなことが起きるのですが、言ったところで赤の他人が「良いですよ、自分で良ければ」とはそう簡単に言ってくれません。今日言ってくれた人が、来年も言ってくれるものでもありません。

しかし、夫婦関係ではそれが成り立つことが前提です。だからこそセックスの外注である不貞は民法上NGであり、家庭の中で解消するものとされています。それが許されなくなった時、人は相当のストレスを抱えます。しかしセックスについては「ポルノ」だと思われているので、夫婦がまともに会話し、問題を解消できるケースは少ないと思われます。わたしを拒まないで、なんてまともに言えるはずがありません。また、夫とはどうしても無理、ともまともには言えないでしょう。疲れているから、と言い換えるしかありません。こうして夫婦のセックスの問題はブラックボックス化します。

結婚とはタスク処理班になっても、心の内側が空っぽでも、民法上のルールはしっかりと守って共に生きていきましょうと誓い合うものですけどね。よくわからないドレスとタキシードにお金を出して得る「幸福の形」とは、あくまでも日本国内における社会制度上の契約に過ぎません。契約があるから守られるしくみがありますからね、相続権とか。恋人同士である内縁関係には相続権なんて代物はありません。戸籍上の夫婦になるメリットの1つは恋愛関係の維持なんかではなく、財産であることは明確であり、夫婦とは共同経営者なのです。

セックスはポルノか

セックスの厄介さは、「ポルノ」にあると感じることがあります。本来夫婦関係においてのセックスはポルノではなく寝酒よりも身体に負担はないし、人肌は温かくて気持ちもよく、低温やけどもしないし、ペットのように毛玉に苦しむことがないく、安眠しやすいので「あると結構良い、温かなコミュニケーション」のはずだ、と言うのが個人的な意見です。大麻のように違法でもありません。

思考より賢い身体


世の中には性別問わず、交渉そのものが痛くて無理、あるいは嫌いな人もいるのは承知です。ただ、配偶者のことを双方の同意の下ではない状態で、汚い、触れない、交渉そのものが煩わしいなど拒絶状態となったときに、社会制度上の夫婦関係を維持するためには社会制度上以外の方法で満たす必要が生じることも事実でしょう。何せ人間は生臭い、社会制度で満たされる幸福など、霞を食うようなものです。

社会制度から得られる果実が実は大したことはない、とわかるのは30代ぐらいからではないでしょうか。ミドルクライシスという大げさな表現もありますが、社会制度から得られる果実は、心の内側になみなみと愛情を注いでくれるものではありません。頭でわかっていても、身体はわからない果実なのです。対して、セックスやそれに類した親愛行為は頭ではわからなくても、身体では甘い果実だとわかってしまいます。身体はとても賢く、脳(というより思考)より健康です。ルックスも社会的ステータスも超越してしまうような果実が、身体によるコミュニケーションにはあります。

不細工とする浮気の裏側にあるもの


不貞行為はよく、配偶者よりもルックスが良くない相手とする、賢くない相手とすると言われています。法律や探偵の現場にいる人なら、頷いてくれるでしょう。「うちの人があんな不細工と浮気するなんて思わなかった!」と叫ぶ人も見たことがあります。

冷静に立ち止まって考えましょう。言葉にするのは憚られるものですが、「触られたくて仕方がない」という悩みを抱えている時に、「今のあなたを欲しいです、触りたいです」と言われてしまったら、ルックス以前に心底助けられてしまうのではないでしょうか。病気で悩んでいる時に、目の前に差し出された特効薬を飲まない自信はどこから来るのでしょうか。手を出せる人に手を出したことは事実でしょう、その視点で見れば大変下品なものですが、特効薬が欲しい患者なら、喜んで飲むでしょう。私もきっと、礼を述べた上で丁寧に飲み干します。

結婚の有無に限らず、自分を拒まない人が居てくれる、身体の隅々まで愛撫されてしまうという事実に、うっかりと救われて泣いてしまう人がいます。私にも泣いてしまった経験がありますし、不意に泣かれてしまった経験もあります。あの人もうっかり、私という赤の他人の身体を通して、救われてしまったのでしょう。

不貞行為であっても心になみなみと愛情を注いでくれたことをガソリンにして、社会制度の維持のために奮闘するという本末転倒な事態がこうして起きてしまうのです。大切な人とセックスごときで揉めないために、大切な人とポルノまがいの話をしないために。第三者に秘密を打ち明けるしかない、そんな人たちはどうすれば「正しい道」をゆけるのでしょうか。

夫婦関係のために不貞行為をする人たち

不貞行為はよく裏切りと言われていますが、実は逆で「社会制度上の関係を裏切らず、維持するために必要になってしまった人」がいる事実に、私たちは真剣に向き合う必要があります。お金があり、手伝ってくれる人がいて、シングルになるデメリット(子や自分への周囲からの視線も含む)がなければ社会制度上の夫婦を終えても良いと思っている夫婦は、潜在的に結構多いのではないでしょうか。

離婚しても親子関係としては戸籍で紐付けられていますから、お金とシングルになるデメリットが無ければ、離婚すれば良いのです。夫婦関係を終えてしまえば、不貞行為は不貞ではなくなります。再婚しても良いし、しなくても良い。民法上の裏切りではなくなるため、実はとっとと夫婦なんてものは終えてしまえばいいわけです。では、なぜ終えないのか。お金とシングルデメリット以外にも理由はあるのでしょうか。

子どもにとっての父・母だから、家族だから、長年一緒にいたから、愛を結婚式で誓ったから。本当の答えはどこでしょうか。離婚に否定的な意見にはいろんな理由が挙げられますが、どこかで相手を所有し、配偶者というポジションを持った以上、固執せざるを得ない「何か」があるのではないでしょうか。

本当はすでに終わっている関係を、戸籍制度上の家族として維持するためには心のガソリンを求めに行くしかないという強烈な事実があります。

不倫はおかしい、不貞行為は気持ち悪い、といろんな芸能人がやらかすたびに炎上します。しかし、コメントを書き込む指先を止めて考えてみてください。自身の内側にある生臭さを知っている反動ではないでしょうか。

この世に聖人なんていないから、アッラーもキリストもガンジーも今なお特別なのです。とっくに夫婦関係が終わっていたとしたら、どのように夫婦関係を維持することが正解なのでしょうか。おそらく答えはありませんがセックスによって得られる癒しが無くなった時(あるいはどうしても頻度が合わないなども含む)に呆然とする人間がいる事実は、消しようがありません。

社会的報酬の果実は甘い?

脳(思考)よりも身体の賢さにたじろぐのは、社会的報酬から得られる果実の苦さを知ってから、という事実もまたセックスの問題をややこしくしています。社会的報酬の果実を維持するためには、良き親であり、良き上司であり、良き近隣住民であり、と良い人間で居続ける必要があります。

私たちのほとんどはクソ野郎であり、良い人間でいることは大人としての義務と演技です。しかし、演技で得られる社会的報酬の果実は決して甘いものではなく、たゆまぬ演技の努力を続ける必要がある苦い果実だと40手前でわかるのです。なぜならこの年齢で、演技力が落ちるからです。

演技には心と身体の体力が必要ですが、確実に落ちるのです。この時、「一体自分は何のために働いて、心と身体をごまかして、義務を果たし演技をしているのだろう」と立ち止まってしまうのです。

先ほど触れたように、夫婦のような密接な関係においてセックスをポルノとして維持するのはおそらく大変困難です。仮にセックスが絶対的なポルノだとすると、興奮する頻度は、長く一緒にいればいるほど男女ともに減ります。すっぴんでカップ麺をすすることもあるし、便座掃除から生理用品から放屁に便秘にと悩むところまで見せるわけで、ポルノとしてセックスを維持することは土台無理な話です。交渉の度に新しい下着を買うわけにもいきません。毛の処理すらしたくない、疲れていて見せたくない、という人の気持ちもとてもわかります。

男性ももう妻と寝るのはいいかな、という時もあるでしょう。その上女性も寝る相手は選んでいます。男性と意外と変わりません。あなたと寝たくないだけで、他の人とは寝たい(あるいはもう寝ている)かもしれないのです。

身体は所有できないという事実

セックスはポルノではない、という側面もきちんと受け入れていく必要があります。あると良いコミュニケーションであり、挿入にこだわる必要もないし、射精やオーガズムもこだわらなくて良いのです。ちゃんと触れましょう、ということです。それができなくなったら家族は維持しつつも、夫婦というのは同意の上で解散しても良いのではないでしょうか。もしもここまで読んで、セックスはしたくないけど、配偶者が他の人と寝るのは嫌と言うなら、その感情はどういうものなのか考える必要があります。

そもそも他人の身体は所有できません。その上他人の身体で得る癒しは介護であり宗教であり強烈です。社会的な評価では得られないほど強烈です。その事実にどう向き合うのか、ぜひ考えてみてほしいのです。

夫婦双方が持つ性への感情は、パンドラの箱の中にあるので言わずに暮らしていても、タスク処理班としては成立します。しかし、本当は夫婦関係において「触れる」「触られる」ことが難しいとなると、密接な他人として生きられなくなっていく人は確実に居ます。仲は良いけど会社の同僚と暮らしたいかと言われたら、NOと言う人は多いでしょう。
戸籍上の夫婦を維持する理由は何でしょうか。親としての評価、そしてお金と世間のためではないでしょうか。それでは満たされないとわかってしまったときに、どうすれば良いのでしょうか。

あと20年ほど我慢して、心と身体が枯れるのを待つこともよくある解決方法です。それこそセックスそのものを不潔だとして、本物の宗教に信仰心を燃やすことも立派な解決方法です。

再度言いますがセックスはポルノではなく、ケアとしての機能があり、片方が片方に頼まれて応じるというしくみではないのです。お互いがきちんと納得のいく方法で触ってケアしましょう、と言うのがなぜ難しいのか。そして片方が難しくなった時に、なぜが介護のように外注することは許せないのか。外注出来ないなら離婚することになぜ問題があるように感じるのでしょうか。お互いに代わりがいないとわかっているのなら、一緒にごまかさずに、答えを出すしかありません。

わたしの代わりも、あなたの代わりもいない

私はある出来事をきっかけに、ポルノではないセックスの良さをきちんと知ったので、結構気楽に生きてこれました。男性に身体をジャッジされることには慣れないし、やっぱり大きなストレスです。でも多少人に拒まれたとしても、「良い感じ」に生きていけると思えたのは、セックスを通して他人を心底受け入れたことがあり、心底愛されたこともあるからです。年齢を重ね、一人になることがあっても、自分のことを自分で大切にできる自信があります。

お金に囚われず、社会的評価にも臆せず、迷いながらもどこか自信を持って孤独と向き合えてこれたのは、極めて真っ当な方法で他人に触れてもらえたからだと思います。私はたった一人だし、相手もたった一人。代替が効きません。そうわかるほど、本当に性を通してケアをされたことがあると、セックスはポルノではないとわかります。今もその経験ができたことを、彼に深く感謝しています。あなたの代わりはいません。

セックスを後ろめたい行為と思ったことも、行為を通して人をジャッジするようなこともありません。今後もゆるしあえる関係の人にだけは、躊躇いなく触るし、触られるでしょう。

触れること

最後に。他人に触れることに、私たちは真面目に向き合う必要があります。愛撫という言葉はとても良い言葉です。愛を持って撫でること。触れること、愛撫することに正解はありません。

大切に、できれば傷つけあわないように、探りあうしかないでしょう。ポルノではなく、親愛なる大切な人をケアするために、親愛なる大切な人に、ケアしてもらうために。

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