クレープを食べる

自宅の近くにキッチンカーが来ている。クレープを販売しているようで、オーソドックスなチョコバナナだけではなく、ブルーベリーやみかん、おかず系のもあるようだった。文量が多い記事の制作が続き、頭の中がショートしている。取材録音を聞きながら家事をしていると、甘いものが食べたくなる。コーヒーと間食を繰り返し、気付けば夕方である。突然会議2本、取材の文字起こしが続く。やりたくてやっていることなのに、とパソコンを打つ手が止まる。

喫茶店に行って、店主と話したがる中年や高齢者の気持ちが分かる。誰かに何かを伝えたいわけではないのに、誰かと何かを話さないと息詰まる瞬間がある。夫の人に、こういう時に逃げ場が欲しくなると言うと、書かない言い訳を見つけないように(あなたは書けなくなったことがあるんだからね)と諭される。外食を嫌うようになった夫の人が、時々昼食を作ってくれるようになり、小さな書斎(図書室の方が正しいけど)でひたすら原稿を打っている。過剰に買ってしまった調味料が見事に減り、鍋の位置が変わり、冷蔵庫に見慣れない食材が増え、塩は岩塩になりサラダ油はこめ油になった。この家は、この人の色や形をしていて、いつも美しいと思う。

10歳という年齢差がある私たちは、不平不満をぶー垂れる子である私と、いろんな経験を積み、海外でのライブ活動経験も多い父である夫という関係を創り上げてきた。

ここ数年、夫の人は自身を厳しく律する傾向を強めた。断酒し、多くの食事を見直し、もちろん喫煙はしないし、塩分の強い外食をかなり嫌うようになった。ミニマリストな生活を強めている。対して私は仕事で県外に交流する人が急増し、友達とは違う人間関係が増えた。子の部活動を通して出会った人も多い。人間関係に揉まれる私に、「やりたいことだけに脳のキャパを割くように。無駄が多いと、また書けなくなるよ」と言い、時々私の人間関係をとても嫌うようになった。人間関係と夫との板挟みとなり、断った約束もある。年齢を重ね近しい人が何人か亡くなった後の夫は、「もう後がない」と思うようになり、ストイックさが増した。「あなたもやりたいことだけのために、自分の時間を使ってほしい」と言う。そのとおりで私の父は、いつも正しい。私も10年後にはその気持ちが分かるのだろう。

クレープはブルーベリーを選ぶことが多い。冷凍のブルーベリーが宝石のように並べられたクレープを買う。子にはみかんのものを。ブルーベリーはとても好きで、冷凍庫にストックしている。体型の維持のために、普段はあまり間食しないのに、疲れているんだろうかクレープはとても甘くて、美味しい。クレープを食べると、マリオンクレープのことをいつも思い出す。その日は東京で地震があり、私とあなたはマリオンクレープの前で揺れに戸惑った。東京タワーは揺れていないように見えた。クレープを買った後に、もしも今東日本大震災のようなことがあったら、私もあなたも帰れないね、と言ったら黙ってしまったのだ。あなたを逃げ場のようにして、喫煙をしたりクレープを食べたり、それはそれは甘くてどうしようもないことをたくさんしたけど、父の言うとおりで私は書けなかった。

ブルーベリーを食べていると、グラッパを好んで飲んでいた時期があったことを思い出す。

都内に仕事で出入りをしていた時、あなたの前でだけはよくグラッパを飲んでいた。ある時、杯を重ね過ぎて酩酊した私のタイトワンピースをたくし上げ、タイツを脱がし、ブラジャーのホックを外してくれたことがある。私の身体の扱いに慣れた手を、酩酊しながらもどこか冷静にじっと見つめた。犯すようにセックスするんだろうか。そういうことをたった1回だけど、あなたは私にしたことがある。ぼんやりしていると、汗でべたついている髪を梳かす。あやされるとは思わなかった私は、急に酔いが回り激しく動揺する。身体を丁寧に撫でては、唇を触ったり、指先をいじったりする。「本当に勝負したいなら僕と暮らせばいいのに」とつぶやきながら、パサついた髪がゆるく一つ結びにされる。聞こえないふりをするために、無理矢理寝入る。結局逃げ場なんてどこにもないのだ。あやされながら寝たふりをする私を、あなたはどんな気持ちで見ていたのだろうか。

グラッパなんて、もう今後は飲まないのだろう。クレープももうあんまり食べないが、キッチンカーが来ている時ぐらいは食べるかもしれない。積み上げた資料と、乱雑に放り投げたイヤホン、ちぎり捨てたクレープの紙を見つめながら綺麗に食べ終わる。


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