見出し画像

舞鶴引揚記念館で戦争の歴史を知る

※特に歴史学者でも何でもない、素人レポートです。史実をどうこう論議したいわけではないので、そこはご承知くださいませ。
※またかなりショッキングな内容もあります。ですがどれも事実です…。実際にあったことなんです…。

そもそも引揚って何?

第二次世界大戦の話から始めないといけません。まず、1920年から始まった世界恐慌で、日本の農村初め、多くの人が貧困に窮していた時代。日本は中国東北部・満州へ農地を開拓、また海外進出を目的として、多くの日本人が渡っていきました。
ですが、敗戦となり日本人は引き揚げを余儀なくされました。
その引き揚げの拠点地となった港の一つが舞鶴港です。
<舞鶴引揚記念館 HPより参照>

ここでなにが起こったのか

戦争が終わりました→すぐに帰れたわけではありません。たぶん教科書で習ったところだとは思いますが、ソ連が不可侵条約を放棄して、満州国に攻め入る→また日本降伏後も、満州から日本に戻ろうとした軍人、従軍看護師などを「日本に帰す」としながら、戦後のソ連復興のために、各地に送り込みました。このとき、満州にいた日本人は把握しているだけでも660万。そのうち、60万人ほどがシベリア各地の収容所で長い年月を暮らすことになります。これが「シベリア抑留」です。

舞鶴引揚記念館について

シベリア抑留中の生活を知るための資料、また引揚に関する展示など、さまざまな観点から、当時の様子を知ることができます。
舞鶴引揚記念館について
☆開館時間: 9時~17時まで
☆休館日: 毎週水曜日、年末年始
☆入館料: 一般400円(赤れんが博物館の共通券は600円)
☆アクセス: バス、タクシーで東舞鶴駅からおよそ15分(ただし、バスの本数はかなり少ないです。)

記念館パンフレット参照

実際に見て、聞いてきたことまとめ

私自身が展示を見て、またこの日語り部さんと一緒に解説もしてくださいました、その話をできるだけ覚えているうちに記録したいと思います。

千人針

戦争に向かう兵隊に向けて、女性が千人玉止めをして作ったもの。
→なぜ玉止め?鉄砲などの「玉」と止める。という意味をこめて。
→その人その人によってデザインが違う。五銭、十銭を縫い付けるものもあった。(五銭→死線を潜り抜ける、十銭→苦戦を乗り越える、という願掛けがある。)
→寅年生まれの女性に関しては、その人の年の数だけ縫えた。寅年は古代中国より縁起のいい動物として捉えられてた。(どんなに遠くに行っても、その力強い走りで戻ってくる、という意味で。)


この時代、「生きて帰ってきてね」ということを口走ろうものなら非国民扱いされましたので、様々な意味をこめて作っていたのだそう。
↓これに関しまして

赤紙がきたときの家族写真

赤紙とは軍からの召集令状です。これが来たら、期日までに「必ず」出兵しなければなりませんでした。それで、出兵された方は、必ず遺骨が戻ってくるわけではない、そんな状況でしたので、髪をきったりして自分の証として残したり、家族みんなで写真を撮っていたそうです。その写真の一枚が展示されていましたが、男性(主に父親)はとても誇らしげに満面の笑顔、対して女性はどこか不安げに映っています。これは、当時の考えとして「国から召集されるなんて、あそこの子供はなんて立派なんだろう」という考えがあったからだそうです。でもやっぱり、残されていく気持ちを考えると…。ね。胸がつまります。

満州開拓青少年義勇団について

先にも書きましたが、そもそも日本での冷害などの被害で、農村は困窮して居りました。それで開拓地を求めて、農村から少年たちが満州へ開拓をしに向かいます。(確か)三年頑張って勉強し、土地を耕しつくしたら、、その土地を国からもらえる、という約束の元行ったそうです。しかし、3年たった後の国の状況は戦争へ歩み進め悪化しており、さらに、この青少年たちはソ連との国境に近いとことにいたため、いち早く捕虜としてシベリア各地へ連れていかれることになりました。生死はほぼ把握できておりませんが、生きて戻ってきた証言はほぼないそうです。

白樺日誌

収容所生活において、紙もない、ペンもない。そんな状況で、白樺の皮をむいて、すすを溶かし、当時の生活の様子、思いをしたためたもの。見つかれば没収されるだけでなく、さらに過酷な場所に連れていかれることもあったため、見つからないように小さく小さく作られていたそう。
ですがそこには、故郷の家族に向けた思い、歌などもつづられていました。このような状況でも、俳句・和歌を詠んでいた方たちがいるんだと思うと、この短い言葉にこめられた思いに考えさせられます。

合わせて、手紙について。
収容所から日本にむけて、決められた間隔で手紙を送ることはできたそうですが、ロシアで検閲できるように、すべてカタカナで書かれていたのだそう。

「ノルマ」について

収容所生活では、何人かのグループに分けられ、一日にこなす仕事量が決められていたのだそう。これをこなさなければ、食べられる食事も減っていた。ここで、個人的にウっと心にきたものがありまして。
日常「ノルマをこなす」など、「ノルマ」という言葉が私たちの生活の中でも使われているじゃないですか。これロシアからきた言葉だそうで、ノルマ=ロシア語で労働標準作業量のこと。つまり、ここでの生活していた方たちが、食料を得るために「ノルマをこなさなければ」ということが沁みついていて、日本に帰ってきても使い続けていたから日本にも浸透してきたのだそう。そんな背景があるなんて知らなかった。

逃げ惑う人々

ソ連が終戦間際に満州国に攻め込む。またこれに乗じて現地の人々も暴徒化します。(日本軍がかなり横暴だったため、あまりいい目で見られてなかった。)そんな中、現地にいる日本人は逃げることになります。ですが、主戦間際だったこともあり、男性陣はほとんど戦場に赴いており、残ったのは女性・高齢者・子どもたちでした。当然、逃げきることはほぼ困難、また苦難な道だったのは想像に難くありません。
なぜソ連が介入してきたのか?このとき広島・長崎に原爆が落とされ、裏ではアメリカ初め、戦後のことを見据えた交渉が進んでいました。つまり、ここで戦争に参加したことになれば、戦後勝ったことで得られる領土や権利などがでてくるのです。つまり、ここで戦争に参加した、という事実を作らなければならない。強引にも進行が始まりました。
戦車を一列に並べて、民間人をひき殺したり、日本人の集団を見つければ発砲していた。そんな状況が続いていました。
また、女性のなかには妊娠している方もいらっしゃり、逃げる途中で赤ちゃんが生まれることもありました。そんなときは兵士の褌をかりて、服を急遽こしらえることもあったそうです。ただし、道もわからない人々にとって、逃げる集団からおいていかれることは即ち「死」を意味していました。
当時の人々は、計り知れない状況の中を逃げていたのだということが、展示されているもの一つ一つから知ることができました。

舞鶴への引揚について

こういった人々を、昭和22年から約10年以上をかけて、日本に帰国させる動きが始まりました。舞鶴港に住んでいた方たちは、最後の引き揚げが終わるまで、帰ってくる人たちを温かく受け入れていたのだそうです。

語り部さんありがとうございました!

以上、まだまだ聞いて来たことはありますが、とりあえずここで一旦終わります。教科書では語られない、歴史の一部でした。それでもどれも忘れてはならない、史実でもあると思えます。

どうかこういった記憶が、忘れられませんように。
二度とこんな惨事が起こりませんように。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?