星の海を駆ける二つの物語だと思った

 スターオーシャンセカンドストーリーの話である。
 PS1全盛期に発売されたRPGであり、開発したAAAのゲームの中でも有数の人気を誇る作品だ。ちなみにPS版ではおまけでアストロノーカというゲームの体験版が入っていて、それなりに評価されたし、実際にやってみれば面白いゲームだったのだが、こちらはシリーズ化しなかった。まぁ一発ネタの塊みたいなゲームだったので、それは正しいかもしれない。
 ともあれ。
 このゲームは、時代の流行りとも言える、主人公が自分のアイデンティティに思い悩み、その答えを見つけるというものだ。いわゆる、自分探しの旅と言ってもいいだろう。
 その舞台として、広い宇宙と未開の惑星があった。そして銀河の安全を害そうとする敵がいて、その敵を倒すための旅路を通して二人の主人公が己があり方を見つける、というものであり、正直に言えば宇宙の要素がさっぱりいらないものだった。
 いやまぁこの作品だけでなく、スターオーシャンというシリーズそのものが、同じように結局は星の海を駆けるような物語を展開することがなかったわけなのだが。ないことはないかもしれないが、タイトルに反してと言うべきか、それが主題になった作品は今のところない。未来で生まれるかもしれないが、最新作の売り上げと評判を見る限り……。スターオーシャンというシリーズが2を頂点にひたすら転げ落ちて行ったとさえ言えるので、あまり期待はできないというのもある。3は戦闘システムだけならば最高傑作だっただろうが、それ以外が問題だったから困る。ただし、ここでは割愛する。

 さて、スターオーシャンセカンドストーリーである。
 このゲームは主人公が二人いる。
 偉大な父を持ち、何をやってもその父の子供だからすごい、としか評価されないクロード。
 温かい家庭に育ちながらも、他人とは違う特別な能力を持ち、どこか疎外感を感じて、そういうものを感じてしまう自分は何なのだろう……と思い悩んでいるレナ。
 この二人の物語が、ゲームの主題である。
 つまり、自分とは何なのか。どうあれば、自分は自分らしいと言えるのか、その想いをくみ取って共に生きてくれる誰かはいるのか、を探し求める物語だ。

 今思えば、当時の流行りとしか言いようがないものだった。いわゆるエヴァンゲリオンの流行で、こういった、自己を探求して、その先に世界との繋がりを持つ、という話が大量に生まれた時期だった。中には世界から身を引いて世捨て人になるような作品もあったかもしれないが、大抵は世界と向き合うことを選ぶものだった。

 スターオーシャンセカンドストーリーもそういう物語だった……はずなのだが、色々な要素を取り込んだ結果、なんだかイマイチその辺りがわかりづらい話になった。実際、この作品をゲームとして評価する声が多いが、自分探しの旅の物語として評価している人はまず見ない。俺だってそうだった。多感な時期のこのゲームに触れて、その自由な世界を愛した。だが、特にクロード編のプロローグで重要視された、彼のアイデンティティ確保の物語に魅かれることはなかった。

 なぜか。

 単純に、その旅の行き着く先を想像できなかったかだろう、とは思う。自分探しの旅とはつまるところ、終わらない物語だ。大概の人は、明確な自己を持ったとしても、状況次第でそれを変化させていくものである。その旅を終わらせるとは、絶対不変の自分を見出すことなのだが、結局それは思考停止にしかならない。
 自分探しの旅の終わりが思考停止では、あまりにもむごい終わり方だ。

 このゲームより後年にはなるが、いわゆるセカイ系の作品はそれを選んだものだと言える。世界の命運を握った女の子を、世界よりも女の子を幸福にするために世界を捨てて、思考を捨てる男の子、というものがセカイ系というものだったと言える。恋した女の子のためにすべてを捨てる男の子、と言えば聞こえがいいが、物語の主人公であるならば、世界も女の子も救う、であって欲しいものであり、だからこそ、俺はセカイ系が好きになれなかった。

 話を戻す。
 自分探しの旅が描き切れなかった物語は、どこに着地したか。

 どこにも着地できずに、ふわふわした形で終わるしかなかったのだ。EDでレナがクロードの手を取り、笑い掛ける。それ以降のエピローグはおまけみたいなものであり、物語はそこで完結しているのだが、別にクロードやレナがアイデンティティを見つけたわけではなく、単に、敵を倒しただけだ。ではなぜそこで終わったかと言えば、自分探しとは思考して、悩むことでしかない。行き着く先は、エヴァのテレビシリーズのような終わり方と描写をするしかなくなる。
 エヴァは日本のアニメ史を語る上で欠かせない作品なのは間違いないが、うだうだと自問自答をして、自己完結的な答えを出して最終回を終えたあの作品のような行いは、万人に納得されるものではなかったし、何度も繰り返していいものではなかった。
 だから、このゲームはそれっぽい敵を倒して、それっぽい空気で終わりをするしかなかった。

 ところで、このゲームはアニメと漫画にもなった。アニメはさておき、漫画はクロードがアイデンティティを見つけた所で終わった。たとえ死ぬことになっても、自分の居場所に帰ることを、クロードが選んで終わった。ゲームで展開されたその後の物語である、銀河の敵との戦いは描かれなかった。それが意図したものか、あの当時の漫画の掲載誌のガンガンの都合であったかは定かではないが、自分探しの旅の結末としては、こちらの方が完成されていた。
 極論を言えば、自分探しの旅の終わりは、人生の終わりになる、ということの証明になるかもしれない。

 さて、この漫画と同じ紙面に掲載されていた作品で、ドラゴンクエスト6がある。こちらも、言ってしまえば、自分探しの旅だった。
 ゲームの方ではあらゆる意味で中途半端というか、想像の余地があり過ぎて困るような出来だったが、漫画はきっちりと描き切った。それは生みの親である堀井雄二の意図したものとは違ったかもしれないが、主人公が今の自分のアイデンティティを見出し、これからも走り続けることを選んで、ヒロインとも再会して……という結末は、自分探しの旅の結末としては満点だったと思う。

 そう、自分探しとは。
 自分の人生を生きるということは。
 つまりは、前に向かって走り続けることなのだ。

 当然の話だが、ゲームは物語が終わっても、いわゆる隠し要素というものがあって、物語が終わってもゲームは続く。つまり、終わらないのだ。だからこそ、スターオーシャンセカンドストーリーという自分探しのゲームは明確な答えを出せなかった。だが、漫画はその旅の終わりを描けた。漫画は明確な終わりを描いていいからだ。

 そう考えると、自分探しの旅と普通のゲームはひどく相性が悪い。PS1以前の隠し要素があまりなかったゲームならば成立したものが、なまじ自由に遊べ過ぎるハードを手に入れたことで終わりを描けなくなったのだから、それは当然である。
 その法則に当てはまらないゲームが、いわゆるアドベンチャーゲームだろう。それも、限りなく、紙芝居ゲーと呼ばれる媒体だ。こちらは物語が終わればゲームが終わりと同義という性質を持つから、明確な終わり替えが変える。だからか、このシャンルにおいて、自分探しの旅を描いた作品はそれなりにあり、かつ、支持を得ることができた。

 つまり、RPGやいわゆる何度もプレイして、明確な終わりを描けないゲームという媒体においては、自分探しというテーマは難しいのだ。現実のように、探し続けて、立ち向かい続けることを描くことができるだきえの技量と、そんなことを許してくれるスポンサーがいなければ成立しないのだが、少なくとも、後者はそれを許容できない。金にならないからだ。終わらないゲームは売れるし、いわゆるソシャゲがそれに該当するのだが、終わらない物語は非難される。昨今のオタク界隈では、エタる――完結されることなく、連載などが止まることが珍しくないが、当然それは非難される。

 創作において、物語は終わらなければならないからだ。

 だがスターオーシャンセカンドストーリーという自分探しの旅は、終われなかったし、それは3においても同じだ。3も自分探しをして、世界の秘密を知り、立ち向かう物語であったが、結局は終われないゲームとなったがために、その要素がいまいち押し出せずに、緩やかに崩壊した。余談だが、このゲームはそれ以外の要素のせいで大いに批判されたのだが、これも実は自分探しの旅の終着点、と考えれば間違いではなかったと言える。ただひたすらにやり方がまずかったという話だし、AAAはこの作品を機に高評価を得られないゲームばかりを作っていくことになる。すべてがそうではないにせよ、少なくとも、スターオーシャンセカンドストーリーとヴァルキリープロファイルで得た評価を再び、とはならなかった。

 現代では自分探しの旅の物語は減ったが、それは所詮、制作側が終わる物語を描けないし、終わらない物語にすることで、長い期間、金を得ようと画策したからだろう。ジャンルは違うが、ドラゴンボールなんかが代表的だろう。悟空の旅は続く、という形で終わった原作漫画も、悟空の旅の終わりを描いたGTも無視して、超は続いている。金になるから。

 そんな創作の世界では、大いなる銀河を旅することができないと思うのだが、人間は現実しか生きられないのだから、現実に負け続けるしかないのかもしれない。誰も夢を見て、夢から覚めて大人になる。少なくとも、それこそが大人になると言うことだ定義した大人たちが多数派である限り、誰の夢も叶わず、本当の自己のアイデンティティなんてものは見つけられないのかもしれない

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