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父の料理が、今日も私を救っている。

私がまだ幼かった頃、父は毎日料理をしてくれていた。離婚後再婚するまでのあいだ、男手ひとつで姉と兄と私の三人を育てた。再婚してからは母が料理をすることもあったし、私はどちらの料理も好きだけれど、人生で食べた食事の回数で言えばやはり父の料理が多い。

離婚後間もない頃は、慣れない家事、料理、それでもある仕事。きっと、父は何もかもが大変だったのだと思う。それでも父は私を幼稚園へ車で迎えにくると、車の中で私の話や歌を聴いてくれて、家に帰ると自分のことはすべて後にしてご飯の支度をしてくれていた。

父がどんな思いをして毎晩ご飯を作ってくれていたのか、私には全てはまだわからない。父は料理がうまくいかなくて声を荒げることがあったし、ある日はキッチンに横たわってぼうっとしていたこともあった。

なんとなくわかることがあるとすれば、あの頃の父は何もかもが必死で、必死で私たちを育てようとしてくれていた。少しでも美味しいものを、少しでも栄養のあるものを。そうやって作られた父の料理はいつだって美味しくて、野菜がたくさん入っていて、社会人になって「栄養がたくさん入ってたんだな、父の料理は」と気がついた。

再婚して少し経つと、週末の晩ご飯は母親が作るようになった。節分の日、毎年のように恵方巻きを食べていた我が家でその日だけは通常の献立で、私は思わず冷蔵庫の前で「今日、恵方巻きじゃないんだね。」と呟いた。それを聞いた母は、おそらく不機嫌も重なっていたのだろう、作るのは自分なのに文句を言った、ご飯の準備が大変なのがわからないのかとすごい剣幕で私を怒鳴った。その話は母親経由で父にも共有されたが、そのときに叱られたのは私ではなく母親だった。「子供が食べたいと言ったものを、嫌な顔ひとつせずに作るのが親だろう。」とそう言った。

父は、きっと私のご飯を作り続けた約二十年間、その気持ちひとつで作ってきてくれたのだろう。私が「あれ美味しそうだね」と料理番組の料理を指差せば、「じゃあ、来週作ってみようか」とどんな時でもメモをして、本当に作ってくれた。一緒に外食に行けば、「これ、家でも作れるかな」と父は嬉しそうに、興味深そうに食べていた。私の父はそういう人だった。

社会人になって、一人暮らしをはじめてこの夏で三年が経つ。料理は好きだし、お弁当を作ったりもする。眠れない夜はスープを作るし、ゆったりできる休日は煮物をつくる。私の記憶の中には、いつもキッチンがあって、そこに立つ父がいて、隣にそれを覗き込む私がいる。スーパーに行くときだって、四歳の頃から父と一緒に買い物に行っていた週末のスーパーを思い出す。そういう記憶の中で、私は今日も生きている。

父や母の料理で育ち、私は生きてきた。だけど、きっと育ててもらったのはこの心身だけではなく、この記憶の中にある安心感もなのだろう。湯気のある食卓、父が包丁で野菜を刻む音。それを思い出すと安心して、自分でも料理がしたくなる。どんなにダメになりそうな日でも、キッチンに立ち、湯気が立つのを見るだけで心が温まって、口元がゆるむ。心がほぐれていく。

私は料理に、料理の記憶に、救われている。

もし、人生最後の日に何が食べたいかと聞かれたら、私は「お父さんのハヤシライス」と答える。小学校に入る前からの私の大好物はお父さんのハヤシライスで、これだけはどうしても譲れない。

こうして書いている間にも涙はとめどなく流れてくるけど、いつか私に大切にしたいと思う人ができたとき、その人の記憶に残る料理が作れたらいいと心から思う。そして、それがいつか、その人にとっての安心の記憶として拠り所となれたら、こんなにも幸せなことはないと思う。

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