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関係性をつづける努力。

「すごくよかった」「綺麗だった」「楽しかった」
簡単に綴られた言葉と写真たちに、なんと返すのが正しいのかわからず、わたしは「よかったね」と送った。

メッセージを送ってきたのは、知り合って8年目になろうとしている友人。同じコミュニティに数年属していたが、友人がコミュニティを抜けたことで頻繁に会うことは無くなったが、それでも月に一度くらいの頻度で会う仲だ。

学生の頃は、大学の話やそれぞれの友人の話、恋愛の話をしてそれなりに楽しく過ごしていた。元々タイプが違うし、彼女は一歳上で、私は当初から適度な距離を取ることが彼女との交友関係を保つ上では必要であると考えていた。

社会人になってからも、同じコミュニティに学生時代に属していたこともあって会うことが多かった。けど、会うたびになんとなく違和感があった。自分の話をしていると「わかる!それ、私も思ってて〜」といつの間にか相手の話になっていることが多かった。恋愛でも友人の話でもそうで、仕事の話になればそれは必須だった。複数人の飲み会で「今日はこの話できたらな」と思っていてもできないことが多くなり、自分の仕事の相談はせずに泣きながら話す彼女の話に耳を傾けることが多くなった。

そんな日が続いていたとき、別件で連絡を取っていた彼女から突然写真が届いた。新幹線で数時間ほどで着くところへ旅行でも行っていたのだろう。写真には雪やら綺麗な図書館があり、「すごくよかった」「綺麗だった」「楽しかった」などという言葉が続いていた。

「よかったら行ってみて!」とか「今度一緒に行こうよ」という言葉が並んでいたなら気持ちは違ったのかもしれない。だけど、報告を受けただけの私は「よかったね」としか返せずに、それでも続く写真に「誰と行ったの?」「何泊?」などと質問を重ねるしかなかった。

そして、数日後、高校時代の友人と急遽飲むことになった帰りふとことのなり行きを話し、「どう思う?」と尋ねた。友人は「付き合ってるの?Twitterみたい」と言った。

人はみんなその環境ごとに変化していくものだと思う。環境や触れ合っている人や物によって変化していく。環境の変化が生じれば、合うと思っていた人とも合わなくなることはあるかもしれない。今回のことだって、彼女だけの変化ではなく、私の変化も影響している可能性だってある。きっと、人間関係というのはそういう変化の中で揉まれながら存在しているものなのだと思う。

だからこそ、先日「もうすぐ付き合って一年になるんだよね」と話す学生時代の同期に対して「お互いの努力がなければ続かないよ。付き合うための努力をしてきたんだと思うよ。」と口にした。

恋愛でも、友人関係でも、きっとそうなのだと思う。親しき仲にも礼儀ありではないけれど、親しさの中にはそれぞれが相手を思いやったり、相手に感謝したりというそういう小さな積み重ねが存在していて、それによってその良好な関係性が続いている。ちゃんと謝るだとか、話し合うだとかだって、そういった努力の積み重ねのはずだ。「気がついたら続いていた」なんてことはなく、意識的にも無意識的にも、お互いの努力がなければ関係性は良好には保たれないのだと私は思う。

私たちは、これからどうなるだろうか。
きっと、私が何も言わずに「うんうん、そうだよね」と言うこともできるし、相手に相談ベースで話を持ちかけることもできる。つまるところ、今この段階では私の努力に委ねられているのだろう。

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