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大切な家族に向けて

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家族について書いたnoteです
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体調不良の日、親はいつも優しかった。

体調不良の日、親はいつも優しかった。

怪我や体調を崩したときの記憶は、なぜか覚えているものが多い。

はじめて親が血相変えて私を看病してくれたのは、ジャングルジムから落ちたときだった気がする。4歳とか5歳の頃に父と公園で遊んできたらジャングルジムから落ちた。回る球のタイプのジャングルジムで、私は自らひょいひょい上がっていって、気がついた時には落ちて口の中を切っていた。この頃には、父が片親で育ててくれていたから、帰りは父におんぶされて帰

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長い道を歩いてきた母に向けて、

長い道を歩いてきた母に向けて、

今日、母が退職した。
私が見てきた母の社会人人生は約18年間。
それはあまりにも長く、おそらく過酷な日々だったと思う。

私の母は、私の母になって約18年。
小学校低学年の時に両親が再婚してから、しばらくの間はお母さんと呼ぶことが出来ず 名前にさん付けをしていた。今考えればひどく傷つけていただろうと思う。それでも母は母だったから 子供である私の気持ちを考えてか お母さんと呼ぶことは強要しなかった。

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それでもきっと、守られていた。

それでもきっと、守られていた。

最後に会ったのは、中学一年生。入学祝いがしたいからと言われて再会した。たぶんこのときは数年ぶりだった。その頃、自分が母親のことをどう思っていたかとかは覚えていないけれど、このときはまだ母親のことをお母さんと呼べていた。

あれから十二年。十二歳だった私は二十四歳になった。中学一年生だった私は、高校生になって、大学生になって、社会人になった。干支は一周まわっていた。この十二年間、連絡を取っていないわ

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私が知らない母親を、Facebookは知っていた。

私が知らない母親を、Facebookは知っていた。

この一月、私は実の母親と再会した。
その時の話は次のnoteを読んでもらえたら嬉しい。

それ以降、特別母親とは連絡を取っていない。もともと、新年と誕生日くらいしか連絡は取らないだろうとは思っていたからそんなものだとは思っていた。だから、特別思い出すことなんて何もなかった。

そんな中、六月から始まった企画メシに合わせて作成したFacebookのアカウントで「知り合いかも」に母親の名前があった。赤

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