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利他的行動とは何か?

仏教における菩薩は利他行という修行を行い、仏を目指す段階といわれる

その菩薩の中にも52の段階があるらしい

こちらの記事を見て、すごく腹落ち感があったので書きたい

私の周りには利他をめぐって大きく分けると2種類のタイプがいる

  • 「利他的行動で幸せを感じる」と主張する人

  • 何も言わないが、思い返せば利他的行動をしているなと改めて思う人

私が本当に信用できると思う人は後者である
「誰かのために何かをしている」というのは菩薩行でいうと位の低い段階でまだ煩悩が多い。
仏に近づくにつれて煩悩がなくなっていく。

利他をめぐる煩悩とは「利他的行動で幸せを感じる」のではなく、「幸せを感じたいから利他的行動をしている」ということだろう。
これって詰まるところ、本当に利他的なのかという哲学的疑問が残る

研修の講師をしていると、常にこの哲学的疑問に対峙しなければならない
研修の主役は「受講者」であり、研修講師はサポート役であると常にどの研修でも心がけているのだが、結局はコミュニケーションの線が集約されているのは研修講師だ。

だから必然的に主役になってしまう。この矛盾をなんとか解決しようとする仕掛けが研修には求められる。

セルフワークをしたって、グループワークをしたって、模範解答は講師が示すのだから、結局はそれ待ち状態にならざるを得ない
だから、私はこのワークについては答えがあるものとそうでないものに分けて研修に組み入れている

答えがあるワークは消化不良でもいいから短時間で、答えがないワークは答えが出なくてもいいから長時間で行うようにしている


話を戻すと、最近はあらゆる活動を「自分のためにやっていることに人を巻き込んでいる」と思うようにしている

ちょっと昔のドラマ「半沢直樹」に次のようなセリフがあった
「銀行は晴れの日に傘を貸し、雨の日に傘をぶんどっていく」
勘違い利他的行動とはまさにこれである
また「傘貸してさしあげましょうか?(持ってないけど)」というのも、勘違い利他的行動である
つまり、相手のためを思ってやっていると表明していることが、相手のためになっておらず結局は自己満足であるということ
こういった傲慢な気持ちに真摯に向き合う必要がある

突き詰めても自己犠牲による利他は限界がある
だから自分のためだと宣言して、それが他の誰かにもプラスの影響があるんだったら、ぜひシェアしますよ、という姿勢で最近は考えるようにしている

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