推しに熱中しすぎていたとき、自分は空っぽだった、と2月4日の日記

推しという言葉や文化が定着してきたのは最近、という話がある。私にも密かな推しがいるのだけれど、推しがいるというのは素晴らしい。人生を豊かに、何倍も彩りを濃くしてくれる。

彼らが生きていてくれるだけで、私の生きる意味があると思えるし、彼らが彼らでいる限り、私も誇れる私でいようと思える。最強で最高の応援団であり、一緒に生きてくれる親友であり、腐りそうな時に手を引っ張ってくれる良き先輩なのだ。

私の中での推しというのは確固たる存在で、ちょっとしたスキャンダルでは揺らがないし、なんなら早く結婚してくれとも思うし、好きなように生きてくれと心の底から思ってる。

ただ最近、私の中に推しを推すことへの強弱があることに気づいた。熱中しすぎていたのはコロナ禍に突入したばかりの時。公式から発信されるつぶやきを全て見逃さず、写真は一枚残らず保存した。出演するテレビ番組は全てリアルタイム視聴かつ録画で見直した。インタビューされた雑誌は全て買って、YouTubeは過去分まで全て漁った。もちろん全てライブに足を運び(一人で)、グッズも買った。
ここまでくると明らかに常軌を逸していると思う、自分でも。それだけ、自分の中がすっからかんで、何もなくて、飢えて、渇いていた。本当に空っぽだったのだと思う。推しの存在を取り込まなければ生きていけなかった。それだけ大きなことだったなと今振り返ると思う。

転職し、仕事に忙しく生きる傍ら、最近はゆるーく推したちと付き合っている。とりあえず音楽活動だけは応援していて、ライブ参戦とグッズ購入、アルバムを買うことだけは欠かさず、それ以外はあんまりやらなくなった。

推しは私の中でレッドブルみたいな感じのものなのだと気づいた。パワーが明らかに足りないときに飲みたくなるし、パワーが必要ない時や足りている時は別にそんなにいらないのだ。最近は自分の中の何かが満ち足りているのか、そこまで推しを強く求めることはない。

これは本当に人によりけりだと思うのだけれど、私の中で推しはそういうもの。私の人生が充足している時、推しも推しで人生を充足させているわけだから、そこまで強く関わりに行こうと思わない。少し元気がなくなった時、少しだけ元気を分け与えてくれればそれで良い。

ライブに何度行っても、彼らが同じ時代に生きていてくれることに感動して泣いてるし、胸いっぱいになるのは変わらないのだけれど、私も私で人生を楽しんでいくから、それを推しに見守ってもらえたら嬉しいな。

ここから先は

1,271字

¥ 100

この記事が参加している募集

今日やったこと

この経験に学べ

記事を好きだな〜と思ってくれた方のスキとシェアが一番嬉しいです😭 読んでいただいたみなさまありがとうございます。 もしサポート費用がいただけたら、書籍もしくは35mmフィルムの購入に充てさせていただきます。これからも自分の写真と文章で更新していくので応援よろしくお願いします!