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(まいけるのお考え)受験と勉強

はじめに

世間では国立前期入試の合格発表や後期入試が実施されるなど、2023年度の受験シーズンはそろそろ幕引きになろうかと言う時期です。

まいけるもその昔、大学受験を経験し、ナイアガラの如く落下した経験があります。その後、紆余曲折を経て、気がついたら博士号まで取ってしまいました。地頭が良いわけでは決してないのですが、勉学というものにそれなりに真剣に向き合ってきました。大学や大学院での活動を通して、高校時代と比較すると勉強に対する考え方が大きく変化しました。そんな私の拙い経験からですが、大学受験を控えている高2、あるいは高校受験を控えている中2の方々にご一読いただけると幸いです。

そもそも何をやりたいのか

何事においてもそうですが、適切な目標設定なきところに成功はありません。自分は将来何をやろうとしているのか、それを達成するために一番の近道となりうる学校はどこなのか、そこに入学するためには何をすべきなのか…ゴールが決まっていれば、自分が今するべきことも逆算的に見えてくるはずです。迷った時には自分の描くゴールを思い出して、今一度計画を練り直し実行する、これは勉強に限らず全てにおいて重要だと考えています。

しかし、現時点では自分の将来の目標がしっかりと定まっていない人も多いのではと思います。私も学生時代はそうでした。その場合、一度ペンを置いてみて「自分は何が好きなのか」を思い出してみてもいいかもしれません。例えば私だったらギターが大好きなので、同じように音楽が好きな人なら「音響工学に強い研究室がある大学に行きたい」、とか、「材料工学の観点から天然木材と遜色ないような人工材料を開発したい」とか、やりたいことが見えてくるかもしれません。もっとシンプルに、数学はパズルみたいで楽しいと感じているなら数学科を目指すのもアリですし、読書が好きだからもっと文芸に精通したいから文学部を目指す、というのも立派な目標です。

一つ添えておきたいのは「なんとなく大卒」という思考は多少なりとも危険である点でしょうか。就職に有利だから大卒という経歴が欲しいというのは、一面だけ見れば確かに真実ではありますが、しかしそれでは無目的的に大学の4年間を浪費する可能性があります。

大学に入学すると自分の行動範囲が大きく広がり、それに伴い自由度もグッと高くなります。さらに社会人としての義務を負うわけでもない、モラトリアム的な身分になるので、まさに人生の夏休みと言えるかもしれません。その夏休みを非生産的に消化してしまうのは、とても勿体ないことです。

加えて、4年間の学費はご両親に負担してもらうというケースが圧倒的に大多数でしょう。国公立ならまだしも、私大の学費は4年間の合計で莫大な額に膨れ上がる可能性もあります。ご両親に平身低頭・五体投地して感謝しろとまでは言いませんが、大学に進学する以上は、ご両親の身銭を切っての献身に多少なりとも報いるような大学生活を送るべきではあります。

無意な学生時代を過ごすくらいなら、大学なんて行かなくても良いと思います。なにも大学進学だけが人生ではありません。先に挙げたギターの例でいえば、プロミュージシャンを目指してMIのような専門学校に通うという選択肢もありますし、クラフトに関する職人を養成する専門学校という選択肢もあります。スポーツが好きなら、強豪の社会人チームを有する企業に入社するという選択肢もあります。自分のキャリア形成の上では大学進学が必要ない、というケースも少なくないでしょう。理想の自分に近づくための道筋を常に思い浮かべて行動する、これが肝要だと私は考えています。

やるからには一番を目指す

大学受験を終えて10年以上が経過している老兵まいけるが、当時を振り返ってみて痛感するのは「自分が設定した目標は低すぎた」ということです。目標が低いというのはすなわち、自分を勉強へと駆り立てるdriving forceが貧弱なのです。

いきなり話が飛びますが、受験漫画の金字塔として名高い「ドラゴン桜」では、数学担当の柳先生が、生徒たちに中学レベルの簡単な計算問題をひたすら解かせました。

これは100問全てに正解しなければクリアとはみなされないというものですが、何回やってもわずかに満点に届かず、イラついた生徒が「5,6問まちがっても、どうってことないだろう」と反駁します。これを受けて、柳先生は次のように叱責。

…ハラスメントギリギリの発言にも見えますが、しかしこれは真理です。そもそもの目標設定が中途半端だと「まぁできなくたって良いさ」「なにも日本一の天才になりたいわけじゃなし」と逃げの精神が作用します。そうして勉強しない自分を正当化して、どんどんと成績が下降していくのです。

受験するからには東大・京大、それくらいを目指しましょう。実際に手が届くかどうかではなく、そこに向けて邁進することが大事なのです。この辺りの大学の入試問題に対応できる力があるなら、もはやあなたに進学できない大学は無いはずです。

とはいえ大学ごとに出題傾向はあるはずですから、志望校とは無関係に東大・京大の過去問だけひたすら解くのも正解とは言えません。自分の進学希望先が決まっているのなら、それに準じた合理的な対策をしましょう。

なぜ私がこんなことを言うかというと、私は少し特殊な過程を経て東京大学に所属していた経歴があるのですが、東大生は決して超能力者の集団ではないと肌で感じたからです。もちろん東大入試を潜り抜けている以上、みなさんそれ相応の学力を有していますし、中にはやっぱりエスパーじみた学生もいます。しかしこれは全員に当てはまることではなく、後天的な努力の賜物として教養を身につけた学生も相当数います。理3の人はまじで天才しかいないと思うけど…

アインシュタイン、オイラー、ガウス、ラマヌジャンみたいな一部の例外的天才を除けば、人間の基本スペックはそんなに変わりません。勉強するかしないか、それだけなんです。「自分なんかがトップ校に受かるわけない」という思い込みは捨てましょう。
おそらくどの学校のどのクラスにも、「あいつ頭良くていいなぁ」と羨む対象がいるはずです。しかしその生徒は、決して並外れた天才ではありません。"あいつ"が立っているフィールドには、あなただって立てます。

(画力と口調が気になってしまうけど)ドラゴン桜、受験の上で大事なマインドを教えてくれる良作ですね。

勉強は贅沢品

ところで皆さんは、”学校”を英語でなんというか、ご存知ですか。おそらく「いくらなんでも馬鹿にしすぎだろschoolだよ」と回答するでしょう。

では"school"の語源を答えよ、と問われるとどうでしょうか。これはラテン語のschola(スコラ)が由来であり、さらにschoraはギリシャ語のskhole(スコレー)に由来します。スコレーの原義は「余暇」です。

要するに昔の人々は、ある者は畑を耕し、ある者は家畜を育て、ある者は海原へと繰り出していました。そうして糊口を凌ぐのがやっとだったのです。勉強よりも今日の飯、じゃないと死んでしまうという人の方が圧倒的多数を占める時代です。勉学に励むことができたのは、そうしたしがらみとは無縁な上流階級だけでした。

現代は飽食の時代といわれたり、フードロスの問題が叫ばれたりもするなど、むしろ情勢は逆転したのかもしれません。しかし「勉強は贅沢品」という問題は根強く残っています。すなわち、自分が受けうる教育のレベルと生活水準は密接に関連しています。家庭が裕福であれば予備校に通うなり専任講師を雇うなりして、高度な教育を受けられます。しかし無頓着な両親のもとに生まれると「勉強なんかしなくていい」と心無い言葉を受けるかもしれません。ひどいケースでは「女に学歴なんていらない」と一蹴されるかもしれません。自分の意思とは関係なく、経済的な事情で勉学を諦めざるを得ない時もあるかもしれません。

もしあなたが「勉強だるい」「授業だるい」と憂いているのなら、その気持ちはとてもよくわかりますが、しかし教育を受けられるのは決して当たり前ではないということを時々思い出してください。こんなに可哀想な人たちもいるんだからその分も勉強しなきゃダメだ、ということではなく、自分は学びたい時に学べるありがたい環境に恵まれてるという意識があれば、勉強というものの見方も少し変わってくると思います。

勉強においては努力と結果が比例する

高校までの勉強というのは大変コスパに優れていて、「問題には必ず答えが用意されている」「やればやった分だけ確実にリターンが生まれる」んですよね。

世間はむしろ逆です。答えのない問題に対して自分で道筋を切り開いていく必要がありますし、努力が報われるとも限りません。

例えば室温・常圧条件下で超伝導を達成して、電気業界に革命を起こすにはどうすればいいのでしょう。その正解は誰も知りません。正解が未だ見えない問題に対して、世界中の研究者が、ああでもないこうでもないと知恵を絞り、心血を注いでいます。少し前に韓国のLK99なども話題になりましたね…🪨

そのような正解が見えない問題に取り組むと、何が起こるでしょうか。ある仮説を唱え、それを立証すべく膨大な研究予算を消費して出てきた結果が、当初の予想と全く異なっているとどうなるでしょうか。無論、プロジェクトそのものが大コケとなり、時間もお金も全てが泡になって消えていくのです。

学問分野に限らずとも、必死に努力したのにプロになれなかったアスリートたちは山のようにいます。メジャーデビュー目指して必死に曲作りを続けたのに、箸にも棒にもかからなかったミュージシャンだって山のようにいます。努力が実らない、というのは世間の常識なんです。

市川の人たち、色々やらかしちゃってるけど大丈夫なんですかね…

ところが大学受験はかなりの親切設計です。適切に努力すれば、その分だけ確実に学力は向上します。すべての問題に答えがあるわけですから、トライ&エラーを繰り返す必要もありません。やれば絶対に結果が出る、こんな好条件をみすみす手放した当時の自分は本当に愚かでした。学問を通じて得た知識は確実に自分の血肉となり、成績は上がっていきます。勉強しない手はありません。

人生なにが起こるかわからない

冒頭で述べたようにまいけるの大学受験は結局失敗に終わったわけですが、唯一英語だけは得意科目で、センター試験(当時)でも9割を超える点数を稼ぎました。今になって思うと、この英語という武器はその後のキャリアパスに大きく作用しました。

大学院以降になると、研究関連で英語を使う機会が多くなります。文献研究をしたり、逆に自分が論文を書いたり、国際学会で発表したり…人間のコミュニケーションの根幹となるのは言語ですから、世界で最もメジャーな言語である英語で学術的なやりとりが行われるというのは、至極自然です。私は英語を真面目に勉強していた分、そのハードルを比較的簡単に攻略できるので、その点を見込まれてラボの教授にすっかり気に入られてしまいました(本人に真意を確認したことはないけど…)。結局学位まで取ったわけですが、これは私の英語力なくしてはあり得なかったでしょう。

受験そのものに失敗しても、受験生時代に自分の武器を養った経験があれば、それは来るべき人生のターニングポイントを成功に導いてくれます。

大学受験はひとつの通過点にしか過ぎません。受かるにしても落ちるにしても、そこから先にまだ道は続いているのです。特に国立大学の入試では受験科目が多い分、広範な対策を要求されるので、苦手科目が足を引っ張って不合格となることもあり得ます。しかし、なにか一つでも武器を持っていれば、それは巡り巡って自分を助けてくれます。

おわりに

説教くさい文章を長々と書いてしまいすみませんでした。受験を終えて私自身が人間として成長したとは全く思いませんが、勉強・学問に対する考え方は高校以前と大学以降で大きく変わりました。そのパラダイムシフトを書き殴ったものとして読み流してください。

なにより、勉強して知識が増えると、自分が暮らしている世界の解像度がグッと上がります。雑司ヶ谷霊園は知らない人からすればただの墓地ですが、学のある人なら「ここに漱石が眠っているのか」と思いを馳せることもできます。知らない人からすればただの川辺ですが、見る人が見れば「これは古代に地磁気が逆転した事実を示す学術上重要な地層である」ことがわかります。

約77万4千年前から12万9千年前の時代は、この地層がある千葉にちなんで「チバニアン」と呼ばれます

そうやって自分の精神的豊かさが養われていくプロセスにこそ、勉強の真の価値が秘められているのではないかと、私は思います。

おしまい。


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