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雑木林の気分 2022年12月4日週次投稿

週のはじめの記述のストレッチ、週次投稿です。
今回は日記のような書きものです。



下の子のお遊戯会が土曜日にあったから月曜日が振り替えの休みで、バスの見送りも幼稚園の準備もないから早めに散歩をしようかと思っていたけど、結局いつもと同じような時間に歩きはじめることになった。

歩きはじめるときに念頭にあったのは近所の市が管理しているフェンスで囲まれた雑木林で、その林は去年の秋のぐらいに一度ナラ枯れの対策のために閉鎖されてその後に開放されたものの夏のいつ頃からかまた同じ理由で閉鎖されている。コナラの占める割合が体感七八割くらいだろうその林の一割ぐらいが前回の閉鎖の期間中に倒木の危険性があるということで切り落とされることになり、今度の期間では樹幹に巻きつけられたカラーのビニールテープを見る限り全てのコナラが切り落とされることになる。

大体陸上の400メートルトラックがすっぽり入るくらいの林の所有権自体はどこかの看護学校にあるらしく、その管理を市が委託されているかたちだろうか。夏の間は15メートルを超える木の高さやそこに茂った葉の密度で、側を通る県道を歩いていると木陰の暗さの印象で少し離れていても林の域に浸っている感覚がでてくる。その感覚も今年限りでのものになるらしい。

この感覚からだろうか、当事者という自分にはどうも似つかわしくないように感じる言葉を思いついた。ナラ枯れの影響があるにせよ直ちに倒木の危険があるか、全てを切り倒すのには何かとうるさい時勢もあるにせよどこか清々としたいという気分が管理している側にありはしないか、とどこか穿った感情が自覚される。

日曜の夕方前に上の子が予約していた本を図書館に借りにいった、その図書館の前にこの雑木林が位置している。生活圏から少し離れた図書館に子どもと自転車で向かうとき、全部切り倒す作業がもう始まっちゃったんだよと何度か通りがかるときに話していたことを改めて話すと、そうなんだ、と生活圏が離れているなりだったリアクションに被せて、そこに巣を作っていた鳥もいるよね、とあさましくなる。彼女は顔をしかめて見せたが次の年には中学生で、そのくらいの演技はするかもしれないとも思う。

2つの県道に挟まれた雑木林の西端の側のフェンスから、少なくとも今の様子を画像でとっておこうと、裏手側の未だ手をつけられていない林の方から丁度作業の途上の境界となっている方に歩いていくうち、フェンスと木々の間から作業が終わった範囲の視界がすっかりひらけているのを見て、自分でも意外なくらい動揺して息を呑んだ。フェンスにiPhoneのカメラを押し付けて金網が映らないように写真をとった。

武蔵野台地での二次林はたしか歴史的に概ね二三十年程度の期間で循環していたという記述を以前どこかで読んだ。原因は異なってくるにせよ循環の言葉にあずければ気分の揺らぎも多少ましになるかと思ったその時不意に、幼少を過ごして道路の拡幅のために立ち退きになった家の横の駐車場になっていた場所を思い出していた。私が生まれる前に火事の火元となったその場所は商店街なりに店を構えていたとは思うが、何をしていたか聞いた覚えはあるもののはっきりしない。祖母は火事のことをほぼ口にしなかったと思うが、うちには昔の写真がない、とこぼしたことがある。

少しずつでも自分なりに考えをすすめて行きたいと思っています。 サポートしていただいたら他の方をサポートすると思います。