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怖がり屋さんはいつまで

上の子が中学生になって寝室に行く時間が日によっては私より遅くなって、下の子は寝支度の最後の工程の歯磨きを終えるなり下に行って寝てねと言われるのが習慣になった。これまでも寝室に一人で行くことのあった下の子は、寝室に降りてしばらくしてまた階段をあがる音が聴こえてくると、リビングの奥さんと私はまたあがってきたね、と声をかけあう。下の子はその都度、水を飲みに来たんだ、喉がかわいちゃって、とか、一緒に寝る人形を忘れちゃった、今日はこの子を連れて行くんだ、とこちらから聞く前に喋りだす。それが毎日のことになると、毎回そうもいかないだろうという意識があるからだろうか一人で寝るのは怖い、キーちゃん怖がり屋さんだからと工夫する余裕もなくなってきた。
そういうことが続くと奥さんもイライラするし、それを見ているのもいたたまれず、じゃあ本だけ読もうかと一緒に寝室にいくようになった。いつかはひとりで眠るようになれないといけないんだよ、とか実のないことを言いながら、一緒になって眠ったときのことも考えて歯磨きを気持ち早めのタイミングで終わらすようになった。

何がそんなに怖いの、と下の子に問いかけるとき、それが自分の記憶の時間にも響いている。下の子がポロポロ涙をこぼしながら、いつかキーちゃん怖がり屋さんじゃなくなるのかな、と言う。そうだね、お父ちゃんもたしかに暗いところや一人でいるのが怖かったけどそうではなくなった、それが何でいつからそうなったか思い出せない、とこたえるとき、”いつかキーちゃん”という発話の中に私が思い出せないだけで以前話しただろう内容が反復していることに気づく。

自分は母や祖母にそう話しかけたことがあっただろうか。いつも祖母と寝ていた仏間は狭くて、祖父の遺影もかけてあって余り怖いと思ったことがない。私はまた祖父に会いたいと思うことがあったと思う。本を読んで寝るまで一緒にいるのもいいけど、そういう場所の印象を変えてみるのも自分のできることかもしれないとこれを書いている今少し考えはじめた。

場所がもっているトーン、感触のことはこれまでにnoteに書いたことがあったかもしれない。場所の単なる感覚(匂いや視覚)と切り分けられず、特定の感情とも結びつかないそれらの場所の感触は、自分の手足の動き方や友だちや家族、それ以外のモノとの関わりのパターンの組み合わせをひとつの体験として混ぜ合わせて自分の中に続いている。
横になって眠っている、パンをこねる機械の動く音が聴こえる、母がいなくなった日の伯母の声が響く、何が起こったのかを直感して身体が動かない、下の子がエアコンの音が大きいんだよ、と私に伝える。

少しずつでも自分なりに考えをすすめて行きたいと思っています。 サポートしていただいたら他の方をサポートすると思います。