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サリーとアンをめぐる考察

「心の理論」について

「サリーとアン課題」をご存じだろうか。有名なので、すでに知識がある方は読み飛ばしてかまわない。

サリーとアン課題

1.サリーとアンが、部屋で一緒に遊んでいる。
2.サリーはボールを、かごの中に入れて部屋を出て行く。
3.サリーがいない間に、アンがボールを別の箱の中に移す。
4.サリーが部屋に戻ってくる。

上記の場面を被験者に示し、「サリーはボールを取り出そうと、最初にどこを探すか?」と被験者に質問する。正解は「かごの中」だが、心の理論の発達が遅れている場合は、「箱」と答える。

引用:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%83%E3%81%AE%E7%90%86%E8%AB%96

さて、引用文中にも出てきている言葉だが、この課題は「心の理論」という言葉と分かちがたく紐づいている。「心の理論」とは、心理学や認知科学、哲学など、心にまつわる学問で使われる用語で、この「サリーとアン課題」のように人間が自分と違う状況の他者(すべての他者がそうである)がいたときに、その心的状態を推測する時に使う機能のことを指す。
この課題は、「心の理論」がどのくらい発達しているかを調べるための課題で、このような課題は相称して「誤信念課題」と呼ばれている。この「サリーとアン課題」は、サリーが誤った信念を持っていることが分かるかどうかを判別するテストだから「誤信念課題」なのだ。
「心の理論」は4歳から6歳で獲得されるものとされ、チンパンジーなどヒト以外の生物でも見られるようだ。また、一般にASD(自閉症スペクトラム)者はこの理論の習得に遅れが生じる。

「心の理論」をどのようなものと捉えるかについては、伝統的に「理論説」と「シミュレーション説」という二つの対立がある。
前者の「理論説」は、「心の理論」は自然理論と同様に経験的な理論を立てることによって習得されるとする立場。我々が“重力”というものがあるからものが落ちるのだ、と予測するように、他者にも“心”というものがあるから見え方が異なるのだ、と予測できるという理屈。
後者の「シミュレーション説」は自分の心をサンプルに、相手にもそれと似たような“心”があるという推測を立てる、つまり“類推”することによって習得されるとする立場。私がこうだからあいつもこうだろう、と帰納的に推測できるという理屈。

しかし、こうした対立は「心の理論」がどのような働きであるか、についての意見の対立である。今回私が問題にしたいのは、そもそも“なぜ「心の理論」を習得できるのか?”という問いである。
問いの種類が違うため、この文章ではそうした歴史的な文脈からは離れて考察を行いたいと思う。それにこの問いは、両者の立場をとっても同様に問える問いであろうから。そうした歴史的な経緯と絡めて正しく話すだけのスキルや知識が私に無い、という理由もあるが(こちらの方が大きい)。

「心の理論」習得の困難さ

「心の理論」はいったい、どうやって習得するのだろうか?誰かに教わって習得するものなのだろうか。相対性理論のような科学理論だったら、教育機関でいくらでも教えてくれる。しかし、この「心の理論」はそういう理論とは一線を画すものなのではないか?
「心の理論」を習得している読者の方々にはここで幼少期の記憶をたどって考えてみてほしい。たとえば、親から「他者の心を類推する方法」について教えられた経験はあるだろうか。
おそらく、そんな経験は無い人がほとんどだろう。少なくとも私は、ことばで満足に話せるようになったときからすでに習得させられていた・・・・・・・気がする。

「相手の気持ちになって考えてみましょう」のようなしつけはいくらでもあるだろう。しかしそれは「(たとえばサリーとアン課題の場合)サリーの“視点になって”考えるべきである」というような、いわば道徳的(言語的?)要請であり、ここで「相手の視点になる」ということの“やりかた”を教えているわけではない。「心の理論」をまったく持たない状況、つまりそもそも「相手の視点になる」ということの意味がまったくわからない状況の相手に「心の理論」を教えさせることは不可能なのではないか?
そもそも、「相手の視点」というのは、不思議な言葉である。だって、私たちはひとつの目、脳からの視点しか実際には感じられないではないか。相手にも視点があると、なぜ当然のように言っているのだろう?
だけれども、なぜか人間は成長するにつれてだいたい「心の理論」を“自然に”習得するようだ。誰かから教わったわけでもないのに、なぜできているのだろうか。

人間が“自然と”習得するものはさまざまだ。たとえば歩き方、くしゃみの出し方、呼吸の仕方等々……これらは遺伝子に刻み込まれた能力である。だが、「心の理論」はそういう肉体的な類の能力とひとまとめにして良いものなのだろうか?この「他人にも私と同じように心がある」という“ゆがんだ”認知の習得が、身体能力が発達して歩けるようになる、といった習得と似たようなものだとは、私にはどうしても思えないのだ。

ここで“なぜ「心の理論」を習得できるのか?”という問いに対して、3種類のテーマに分けて考察をした。順に追っていきたい。

①「心の理論」とファンタジー

一つ目の考察は、「心の理論」の習得にはファンタジー(空想の物語) について考える能力が大きく関わっているのではないか、という考察である。
ファンタジーについて考える、すなわち空想をするとはどういうことか。それは、可能性について考えるということである。ドラゴンが存在する可能性。両親が本当の親ではない可能性。明日の晩御飯がカレーである可能性。自分がそもそも生まれていなかった可能性……などなど。私たちは実にさまざまな可能性について考える=空想をすることができる。

そういった可能性を想像する能力があれば、いつの日かそれを“心”でも考えることができるようになるのではないか。
『もしもあのサリーが、私のようにそこにいたら?』
そうしたファンタジーを想像することは、空想能力が十分に発達していれば、じつはたやすいことだったのではないだろうか。

しかし、まだ問題は残る。なぜ「心の理論」なんてファンタジーを、みんな似たような形で思いうかべられるのだろうか?これでは集団幻覚のようではないか。
「心の理論」が、ほとんどの人間が児童期までに習得できる能力である以上、その習得には必然性がなくてはいけない。その“必然性”については、③でその答えに迫ることができていると思う。

また、さらに根本的な問いとして、“なぜ私たちは可能性について考えることができるのか=なぜ私たちは空想をすることができるのか?”という問いがある。おそらくそれについても③のテーマが答えを出すヒントになると考える。

②「心の理論」と時間

このテーマでは、前後の二つとは少し違う切り口で考察をする。そのため、文章全体にとって余剰となる考察かもしれない。だが、この考察「心の理論」というテーマとって重要な示唆があると私は思う。
記憶、ひいては過去というものを我々は覚えている。我々はそう遠くない過去であればその過去に自分がいた、というかいることを覚えている、というか知っている・・・・・。このことは、他人がそれぞれ視点を持っていたりすることにくらべれば、いくぶんか自然な認知ではないか?
しかし、その過去の自分というのは、完全な自分ではない。今の自分に比べてお腹がすいていたり、同じ場所にいなかったりする。そういった「差異」があるということだ。そういう意味で、いわば過去の自分とはもっとも自分に近い他者であるともいえる。
たとえばこういう課題があるとする(これは私がこしらえた架空の課題である)。

あなたとあなた課題

1.あなたはボールで遊んでいて、疲れてきたのでボールをかごの中に入れて寝る。
2.次の日にあなたは起床し、ボールをかごから出して別の箱の中に移す。

上記の場面を被験者に示し、「1.の時点のあなたがボールを探すとしたら、ボールをどこから探すか」と被験者に質問する。正解は「かごの中」。

少なくともあなたは、過去のあなたがボールの位置がかごにあると思っていた(いる)ことを知っている。そして同じく、過去のあなたの視点があった(ある)ことを知っているのだ。こうした課題を解くためには、「心の理論」の時間バージョン、名づけるなら「時間の理論」を習得している必要があるだろう。
具体的にそういう研究があるのかは知識がないが、この「時間の理論」はおおむね「心の理論」より先に習得するのではなかろうか。というのも、私にはこの「時間の理論」を経由しなければ「心の理論」の習得は難しいように思えるからだ。
さきほど、過去の自分を「もっとも自分に近い他者」と書いたが、これは「最初に知る他者」と言い換えてもいいだろう。つまりここで言いたいことは、我々は過去の自分をヒントに「他人にも私と同じように心がある」というアイデアを生み出すのではないか?ということである。過去の自分とはさきほどのような「差異」があり、知っていることも異なっている。その“異なっている”ということの意味が「時間の理論」により理解できる。その“異なり方”が他者にも適用できると我々はあるとき、気が付くのではないだろうか。そこから「心の理論」の習得が始まるのではないだろうか。

(また重要な点として、過去の自分(最初に知る他者)と、通常の他者では決定的な相異点がある。それは記憶による接続である。少なくとも記憶の上では、我々は過去の自分が現在の自分と同じように、視点や五感を持っていたことを確信している。その確信によって過去の自分と現在の自分は接続している。そしてその確信は、記憶によるものにちがいない。この相異が「時間の理論」が「心の理論」に先立つことの裏付けになっている)

実際、「時間の理論」から「心の理論」を導きだすのはそこまで難しくないのではないだろうか。自-他についてのサリーとアン課題と今-過去についてのあなたとあなた課題は、文章こそ短くなっているが構造それ自体の変化がほとんどないことがお分かりいただけるだろう。
また、「時間の理論」と「心の理論」は同時に使うことも可能である。だから、以下のような課題も平気で解けるようになるのである。

サリーとサリー課題

1.サリーはボールで遊んでいて、疲れてきたのでボールをかごの中に入れて寝る。
2.次の日にサリーは起床し、ボールをかごから出して別の箱の中に移す。

上記の場面を被験者に示し、「1.の時点のサリーがボールを探すとしたら、ボールをどこから探すか」と被験者に質問する。正解は「かごの中」。

以上の考察だが、いくつかの疑問も残る。
まず「時間の理論」の習得には、「心の理論」のそれ変わらず、やはり飛躍が必要ではないか、ということ。記憶があるからといって、現在と過去はまったく違うものである。その二つを我々がいともたやすく同一視できる原因として、記憶だけではない、なにかのトリックがあるのではないか。
しかも、①で出されたような、その必然性についての疑問がある。「時間の理論」があるからといって、なぜ全員がそれを「心の理論」に導き出せるのだろうか。必然性についての疑問は、こちらも③で答えが出せるのではないかと思う。

③「心の理論」と言語

“なぜ「心の理論」を習得できるのか?”という問いに対し、ラストに“言語”というものにも目を向けてみたい。
私たちは、成長するにつれてことば、言語というものを(なぜか)使えるようになる。それにより、人間はしだいに他の人間たちとコミュニケーションをとることができるようになる。しかし、その言語によって伝えられないもの―—語りえぬものも存在する。たとえば、痛覚や味覚といった感覚そのもの・・・・である(この“感覚そのもの”は哲学用語で「クオリア」と呼ばれることもある)。
たとえば、私が言語を使って「痛い」と叫んでも、私が感じていた<痛み>そのものは誰にでも共有可能な「痛み」として受け取られざるをえない。・・・・・・。私が叫んだとき、私が現に感じていた<痛み>の感覚は平板化されてしまう。そしてその平板化は、私が言語を使って叫んだそのことによって起こってしまったのだ。

私たちは成長につれ、他人も「痛い」という言葉を使って叫ぶことができる、ということにすぐ気が付くだろう。そのとき、この「痛い」という言葉は、私が<痛み>を感じているときに“私だけが”使うことのできる言葉ではなかったのか……最初はそう感じても不思議ではない。「痛み」という言葉を覚えるときには、人間はその人自身が感じていたこの<痛み>しか知らないからだ。だが、言語はそういうふうには出来ていないのだ。言語は、誰が使っても同じ意味にならざるを得ない、そういう性質を持っているのである。たとえば、私が「猫」と言ったり書いたりしたとき、ひとまずは・・・・・ニャーニャー言ったり四足歩行したりする“あの猫”でしかありえない。そうしたことが、感覚だとか意思を示す言語にも言えるのだ。

だがしかし、そうした平板化により、言語の上からは私が感じていたあの<痛み>といった感覚は、すっぽり抜け落ちてしまう。私たちの――という言葉もここでは危険だが——見ている世界と、平板化された言語の間には、大きな矛盾がある。たとえば「痛み」という言葉は、私のあの感覚を指す言葉だったはずなのに、いつのまにか他人に寝取られてしまっているのだ。
そのショックを埋めるために導入されるのがきっと、「心の理論」なのだ。「他人にも私と同じように心がある」と類推することで、この主観と言語の間に空いた大きな溝は埋めてごまかすことができる。この理論を導入することで、晴れて「痛み」といった言葉は、私の言葉ではなくみんなの言葉になるのだ。

「心の理論」とは、だれか個人に習って習得するものではない。それはいわば言語から―—他人が自分と同じように言語を用い、ともすれば「私」などの一人称さえも自分と同じように使えてしまうという事態から――“習おうとする”のではないだろうか。
そういう意味で、私たちが言葉を使う限りにおいて「心の理論」の習得は必然的なものだったのである。

まとめ

①②③と考察を広げて、“なぜ「心の理論」を習得できるのか?”という問いには、綺麗な答えとはいかずとも、それに近いものを示せたのではないかと思う。
以上の考察には、一部に解消されていない疑問点もある。けれども、それぞれの疑問点は、ある一つの問いに集約されると思う。その問いとは、“なぜ言語を習得できるのか?”という問いである。
たとえば、①には“なぜ私たちは可能性について考えることができるのか=なぜ私たちは空想をすることができるのか?”という問いが残されていた。しかし、そもそも言語なしにそういった空想をすることができるだろうか?
②についても問いが残っていたが、”現在”や“過去”といった言葉を使った問いだった。だが、そもそも”現在”や“過去”といった捉え方そのものが、言語を土台にして働いていないか?
③では、①と②に残された必然性についての問いへ、我々がふだん使っている言語に着眼点において答えた。しかし、その答えは私たちを次の問いへと誘う。それが“なぜ言語を習得できるのか?”という問いなのだ。その問いにこの文章で答えるためには、私では知識不足である。

それとも、言語の習得無しに、サリーがどこからボールを探すか理解できるようになるのだろうか。そうだとしたら、それはどのような方法だろうか。それを言語によって記すことが可能だろうか。

(先ほども述べた通り「心の理論」の概念は発達心理学——とりわけASD(自閉症スペクトラム)と深い関わりをもつ概念である。この文章ではその気質と関連づけることはしなかったが、以上の考察をしているときにはその気質のことが常に念頭にあった。機会があれば、ASDについての文章も書いてみたいと考えている。)

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