闇のドラッグ市場
これは私が昨夜みた夢のお話しです。
鼻づまり解消のため、サトウ製薬の「ナザール スプレー」が手放せない私。
とくに夜寝るときには、絶対にかかしたくはない。
両方の鼻がつまっていると、口呼吸になってしまう。それだと、喉がカラカラに乾いてしまうし、途中で起きてしまって睡眠も浅くなるばかりだ。
睡眠薬や安定剤を飲んで眠る私は、どうしても、安眠のためにはうるさくなってしまう。
うつ病というのもあって、こういうことが解消されないと、精神衛生上も非常によくないのである。
お薬というのは、仮に使わずに済んだとしても、あることで安心感を得られるものだ。少なくなってきて、もう足りないかもしれないと不安になることも避けたい事態だ。
だから、お薬は多めに購入をしておいて、なくなったらいつでも使えるように、在庫をストックするようにしていた。
ナザールスプレーは、ラベンダーの香りが気に入っている。けれども、この香りが近所のドラッグストアには置いていない。そこには、ミント(メンソール)のような香りのものしかお取り扱いがないのである。
だから、私は夫に頼んでインターネットで5箱くらいまとめて(送料を無料にしてもらう関係で数箱いっぺんに)注文をしてもったりもする。
ネットだと、薬局よりも安い価格で買えたりもするからだ。それにしても、夫にお願いするのは、ちょっと気が引けるものだ。
まあまあ、ナザールスプレーはお値段がするものだから……(容量を考えてみれば納得ではある。1個でかなりの回数プッシュできるから)。
家計としては、ネットの割り引きを利用した方がよいことは確かだ。けれども、節約家の夫の目には、こういったお薬を日常からバンバン使ってしまう妻が、どんな風に映るだろうか。それが気になる私は、定価であっても、なるべく薬局で、自分で買うようにしている。
それは、たまたまバスで遠出をしたとき等に、行った先の薬局を数件まわって探してみつけるという、なかなか面倒なものであった。
本当は今夜の分も、足りるかどうか心配なくらいだったけれど、私は買いに行くのをずっと忘れていた。いくつか、ストックして置いてある場所にも、もう在庫がない状態になっていた。
思えば、コロナで緊急事態宣言が出てから、外出を控えなければならない日々がつづいたためだ。
ラベンダーの香りが売っているお店まで、行くことができなくなっていたのである。
近ごろは、もうラベンダーの香りに、なるべくこだわらないようにさえしていた。近所のドラッグストアで、手に入るものを購入していたのだ。
それなのに、どうして……?
うかつにも、私は、こんなにも必要としているナザールスプレーを、切らしてしまいそうになっていたのだ。
念のため、もう一度、言っておくが、これは夢の中のお話しである。
その、夢の中で、近所の薬局まで、私は夢中で走っていった。
息を切らせていったが、ちょうど閉店をする時間になっていた。
「間に合わなかったの?」私は悲痛な叫び声をあげた。膝からガクッと崩れ落ちて、もう人生がお先真っ暗という気分がしていた。
うなだれて、途方に暮れていると、電信柱の影から、痩(や)せこけた初老の男性が現れた。身なりは汚ならしくて、たとえて言うなら、ごみの中から出てきたお化けみたいな格好をしていた。しかも、お酒に酔(よ)っているのか、ヨタヨタと千鳥足(ちどりあし)である。
チカチカと点滅をする電灯を背に、その男はしわがれた低い声で言った。
「この先に、闇の市場があるぜ。そこに売ってるかもな」すっーと、指で細い路地裏を指さしている。
「えっ? 助かります」
「けどな、奥さん、気をつけな。あんたみたいな主婦が行くところじゃないよ」彼は薄気味悪い笑みを浮かべている。
私に迷いはなかった。
これで、ようやく今夜も安眠できる、そう思って胸をなでおろしていた。
そこにあるといいな、私はとにかくナザールスプレーのことだけで、頭がいっぱいになっていた。
闇の市場は、人種のるつぼであった。
さまざまな国の、さまざまな風貌をした者たちがいた。
それは、活気があってにぎわっているという意味では決してない。事情を抱えた雰囲気の、ある種類の(アウトローな?)大人たちだけが、ひっそりと集まってきている、そんな怪(あや)しげな場所であった。
「サトウ製薬の、ナザールスプレーありますか? あっ、ラベンダーの香りじゃなくても、もちろんかまいませんから」私はそこの売り子の若い女性に聞いた。
彼女は、私のことを、下から上まで、ジロジロ……と露骨(ろこつ)に眺めた。
「こっち、来な」無愛想な調子で私に言う。彼女は、カモンという、外国のジェスチャーをした。
そのとき、お会計の担当である若い男性と、妙な目配せをしているのもわかった。
そして、彼女は、適当に並べただけの、露店の陳列(ちんれつ)の、店の奥の方へと私を誘い込んでいった。
「自分でやりな」
ダンボール箱が無造作(むぞうさ)に置かれてあり、その中をのぞいて、お目当ての商品を探すように言われた。
「は、はい。どうもありがとうございます」
いくつか置かれたダンボールの中には、お薬を中心としながらも、マスクや包帯、爪切りやナイフなどが、ごちゃ混ぜになって入っていた。
どれも新品で、袋入りのちゃんとした商品である。
「あんた、ウチが闇だってわかってる?」
「まあ」
「割り引きとかないよ。むしろ、高値かも……」
「大丈夫です。今日だけ、1個だけほしいんで……」
「へえ~。レシートも出せないよ」
「あっ、大丈夫です」
私を心配しているようではなかったが、べつに馬鹿にしたようでもない。
彼女の言い方は、まるで、違法な、ヤバイ商売でもしているみたいな感じだった。
心の中で、ちょっと大袈裟(おおげさ)だなあ、などと私は思っていた。
近ごろ便利で人気の、車での移動販売、そのくらいにしか考えていなかったものだから。
「荷物、持ってってあげようか?」かさばっている私のトートバッグをみて、彼女が言った。
なぜ、私は彼女に自分の荷物を渡したのだろうか?
ダンボールの中をのぞき込むのに夢中で、どこか気を抜いてしまっていたのかもしれない。
海外などで、日本人というのは、ふと鞄(かばん)を床やベンチなどに置いてしまうらしい。
手を放して油断をした隙(すき)に、誰かがそのまま持っていってしまうのである。いわゆる、置き引きというのだろうか。
どんなときも、手荷物は自分の身から手放してはいけないというのに。
かくして、夢の中の私は、お財布(保険証、キャッシュカード、入金してばかりのパスモなども入っていた)やブランド物の折りたたみ傘、それから大事なスマホ(!)までもひっくるめて、そのトートバッグごとすべてを奪(うば)われてしまったのであった――。
あっという間に、闇の市場も店をたたんで、走り去ってしまっていた。
ナザールスプレーも、もちろんなかった。
一人きり残された私は、「やられた!」と思いながらも、警察に連絡してもこれは無駄だななどと思っていた。
キャッシュカードと保険証の紛失(ふんしつ)だけは、すぐにしかるべき連絡をして、悪用されないように手続きをしなければならない。
そもそも、闇の市場だなんて、そんな(危険な匂いのする)場所に行ってしまった自分がいけなかったような気がしていたのである。
「そりゃ、お勉強代としては、まだマシな方だったと思うぜ」あの、初老の男性が、灰色の電柱の影から、ふたたび現れて言った。
それは、まるで仙人(せんにん)が、悟(さと)りの境地(きょうち)にいたる、その修行のきびしさを教えてくれているかのようにみえた。けれども、その口調には、どこか愛情とあたたかみが感じられて、なんだか私は癒(いや)されていた。
チカチカと消えかかった電灯の明かりが、彼の冷たい顔に、不気味な陰影(いんえい)をつけている。それでも、この男性が悪い人にはみえなかった。ただ、彼は過去に、相当(そうとう)な痛い目にあったことがあるのだろう。そんな雰囲気がしていた――。
なんなのだ、この夢は……!
確かなことは、ただひとつ。
明日、よほどのことがないかぎり、私はいつものドラッグストアに行くだろう。そして、サトウ製薬の、ラベンダーの香りではないけれども、ナザールスプレーを買うだろう。
そうして、無事に手に入れることができるはずだ。
普通に、日常生活が戻ってきたのだ。
はっきりと(眠りから)目が覚めた私は、もちろん、はあっ~と深いため息をついていた。
おしまい。
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