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『カルテット』初見感想 自分の好きを他者と共有する難しさについて(自分語り)

※ネタバレありです。

先月に1話を見たときは、坂元さん独特の会話劇に、なんかめんどくさいなと思ってしまい、その後1カ月近く放置してたのですが、ここ3日間ぐらいで一気見しました。

私が心に刺さったのは、巻夫婦のすれ違いと、九條さんと結婚できなかった別府さんの話。
好きなものが同じ人と出会って一緒になるって、現実では、ドラマの世界以上に難しい、ということ。

私も九條さんみたいに、趣味が合って(カラオケぐらいしか描写がないけど)素を出せる友人がほしいなー、できればそれが異性で、でも結局その人とは別の人と結婚するっていう贅沢したいなー。
っていうのが1つ目の(かなり薄っぺらい)感想。

気付くのが遅すぎる別府君から結婚しようと言われても、早朝ベランダでサッポロ一番を食べることが「君と私のクライマックスでいいと思うんだよ」ってはぐらかさずにきちんと説明してあげる九條さん、やっぱりかっこいい。
それに対して、奏者として呼ばれた結婚式で九條さんとの思い出の曲を演奏しちゃう別府さんの姿は、男気がないと思ってしまった……。そんなところで自我(未練?)をだすなよ。吹っ切れろよ。

2つ目の巻夫婦のすれ違いは、私は圧倒的に幹夫に共感する立場で。
幹夫の場合は、結婚相手に真紀さんを選んだ理由は一目惚れがきっかけでミステリアスな魅力に惚れたから。だから別に自分の好きなカルチャーを理解されないことは、大きなショックではなかったはず。
映画を見ていていちいちこの人はいい人か、悪い人かを気にしたり、ハッピーエンドかどうかを気にしたりする真紀さんの姿勢は、作品鑑賞のマナーとして、まあちょっとあり得ないだろ…って思うけど。
っていうか、真紀さんは家森さんのめんどくさい話はわりとすぐに理解できるのに、なんで映画になると善人か悪人かにしか気が向かない感性ゼロ人間になってしまうわけ?笑
そう振る舞うことで、「普通の恋人」になれると信じていたのかな、と思うと少し切ないですね。

幹夫が失踪を決意した大きなきっかけは、自分が好きで薦めた詩集を、真紀さんに鍋敷きにされたということでした。
私も同じような体験をして、友人との長年の縁を切ったので、幹夫が失踪する気持ちは痛いほど分かりました。
その友人とは好みが全く合わない、むしろ、友人が好きなものは私の嫌いなものとまで言えるほどで、付き合いが長い分、その点は十分自覚していました。だから、今思えば、どうしてその子と映画に行ったんだろう。どうしてそれもヤクザものという、絶対に人によって好き嫌いが分かれるテーマの映画を選んだんだろうと、不思議です。そんな、ハードルの高いことをしなくてもよかったのに、と。
結果、そのヤクザ映画を見て、私は目がパンパンに腫れ、ミニタオルが使い物にならなくなるまで感動の涙を流し、友人は「所詮ヤクザの自業自得の話だ」と言って、トイレで顔を洗う私を、理解できないといった表情で待ちました。
その言葉を聞き、その表情を見た瞬間、私は「ああ、もう無理だ」と思いました。それ以降、徐々にその友人とは連絡をとらなくなり、今はもうどこにいるのかも知りません。
私にとってその映画は今も人生で一番感動したと言えるし、その人と二度と会わなくなっても、後悔はしていません。
でも、そんなことでいちいち人に対して失望し、人との繋がりを絶ってしまう自分に、身勝手さや幼さを感じてしまうのです。

幹夫は、のちに真紀さんと再会し、妻がずっと自分を待っていたことを知り、妻が普通の夫婦になりたかっただけだということにも気がつきます。しかし遅すぎた。しかも、自分が犯した余計な罪のせいで離婚もしてしまった。
自分の好きなものに共感してもらえなかった、というだけで起こした行動に、重すぎる代償が返ってきたのです。
結婚しても恋人同士でいたかったという話を幹夫はしていますが、「恋人同士である」ことに、相手の好きなものを理解、共感するということは必ずしも重要なのでしょうか。

私は、幹夫になる一歩をもう踏み出している。
自分の好きなものを相手も同じように好きだという状況って、奇跡なんだ。他者の好きのありかたまで自分の思い通りになるわけない。
他者はどこまでいっても他者で、私が他者を理解できないように、他者も私のことなんかこれっぽっちも分からないんだ。
そんなことを考えて、少し落ち込みました。
でも逆に、そもそも分かり合えない他者とだからこそ、一緒になにかを成すことが尊いんですよね。

人生の諸先輩方、自分の好きを尊重しながら、他者の好きも尊重する生き方のコツ、おしえてください……。



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