世の中に溢れるソーシャルアクションを「脱構築」してみるということを、してみる。

「脱構築」してみるととなんかかっこいいけど。

脱構築、という言葉をよく耳にする。
これまでの在り方を脱構築する、固定概念を脱構築する、既存のデザインを脱構築する、、、、とかくこの言葉をつかっておけば、これまでの常識に捉われずに、新しい物事を生み出しているみたいでなんかかっこいい。

で、結局、脱構築ってなによ?

なんとなくの意味はわかっていたつもりだったが、実際にその意図するところをきちんと調べたことはなくふと疑問に思っていたところ、たまたま人から千葉雅也さんの「現代思想入門」という、まさにこの問いの答えを知るのにピッタリの本をいただいた。

こちらは哲学の、特に現代思想がどういうものかというのを解説する入門書なのだけど、
非常に読みやすく、哲学の言葉のみではなかなか理解が難しい概念も、わたしたちに馴染みのある例えや感覚を使って解説してくれている。

さて、脱構築とはなにか。
かなりざっくりとした表現だけれど、この本を読んで、自分なりには、「二項対立から逃れる」ということと理解した。

この世は、真面目/遊び、自然/文化、健康/不健康、秩序/逸脱、というように、物事を対立する二つのものとして分けて考え、一方がプラスでもう一方がマイナスであるとする価値観によってできていて、そして通常はプラスとされる方を支持するような主張がなされるが、

脱構築とは、通常マイナスとされているような方を味方するようなロジックを考え、正しいとされている主張に対抗すること、そして一方がよくて片方がよくない、というように、二項がごりごりに固まって対立しあうような関係とするのではなくて、両者は互いに依存している、一つのものがプラスにもマイナスにもなるよう両義性をもっている、と考えることらしい。(自分なりに解釈・要約したためちょっと違う所もあるかもしれない)


誰がいいとか悪いとか

なんでいきなり脱構築なんてものをもってきたかというと、なんかこういうこと言ってたらかっこよさげに見えるというのはもちろんあるけれど、

この「二項対立から逃げる」(脱構築の概念を自分なりに表現するためこんな言葉にしてます)というのが、これから自分がやろうとしている、ファッションの課題を考えたりその解決方法としてリメイク・アップサイクル活動をやっていく上でのスタンスとして、ちょっと押さえておくのが大切だなと思ったから。

というのも、自分がファッション産業の課題を学んだり、発信したり、それを少しでも解決するにはどうしたらいいか考えたり行動していくにあたって、「ファッション業界やブランド、国や企業のせいにしたくない」というのがあるなあと感じているからである。

たしかに多くの服を生産し環境に影響を与えているのはそれを作る企業や業界全体かもしれないし、それを規制する国の政策の遅れがあるのは確か。

ただ、今のファッション産業のシステムとそれによって生まれた負の側面は、自分達消費者の欲求に答えるために出来上がったもので、いわば自分達自身がつくりだしてしまったものである。

だから、それに目を向け、なにかを感じる、考える、行動に起こしていくのは、消費者そして一市民である自分達だからこそやっていかなければならないのではと思う。
誰が悪いとかどこに責任があるかではなく、責任を自分達でもちゃんと背負って、なにが自分達にできて、どうやっていくかを考えるということが大事なんじゃないかなあと。

これはファッションに限らずあらゆる産業、経済社会システムに関していえることで、もはやこの時代を生きている人間は、大なり小なり将来のためになにかしらの責任を負わずには生きてはいけないのかもと思っているところ。

今の世の中を見渡すと、憲法9条を維持するのか改正するのか、原発をもつのかもたないのか、米軍基地は不要か必要か、ファストファッションは悪かそうでないか、企業が悪いのか、国はどうするのか、、、

何が良くてなにがダメか、誰が悪くてどこに責任があるのか、プラスかマイナスか、白黒はっきりさせるようなコールや活動が多いように感じている。
(こうした活動の性質上、白黒はっきりつけて激しく声をあげた方が、世間の注目を集めることができ、問題について多くの人の関心を高めることができるからというのはわかる。それに、デモや社会的運動は欧米から始まる事も多いから、物事の主張の仕方として顧客や市民としてなにか対価を払っている分、責任も強く求めていくという考えが根底にあるのかもしれない。)

しかし、例えば憲法や何らかの法改正であっても、それを維持するにしろ改正するにしろ、それによってメリットもデメリットも生まれるのは当然で、本当に大切なのは、物事それ自体が正しいかどうかではなくて、

それによって得られるメリットとデメリットはなにか、それが今の社会や自分達にとって必要か、今の自分達にとっての最適解は何か、それを達成するためにどういう手段をとっていくか、を議論することではと常々思っている。

ファッションの世界でも、グローバルなキャンペーンや運動というのは、例えば毛皮の廃止を求めるデモをやったり、企業のサステナ度をランキング付けして達成度を測ったり、強めのワードで政策提言をしたり、というようにブランドになにかを要求したり、国に対応を求めたりするものが多いような印象である。

しかし、世の中の問題ってのは大抵、誰が悪くてどれがいいとか、そういう答えなんてもんはない。
誰しもが問題に関わっていて、誰しもが原因であり、そして、誰しもがその問題を解決するきっかけにもなり得るのである。

だから自分のアプローチとしては、大きな声で問題を提起したり、0か100かで判断していくというよりも、もっとパーソナルに、内省的に、まずは半径1メートルの範囲で、自分達自身のことを振り返り、できること・やれそうなことを考え、そして実践していくという形でやってみたいと思う。


二項対立の裏側から

自分はこれまでのキャリアの中で、少しだけ行政の裏側やグローバル企業の内情を垣間見ることができた。そこでの感想としては

「みんな自分達のことだけ考えてなんかいない」

ということ。
国や大きな企業というのは、とかく悪者にされがちで、自分たちの利益や権力を追求することばかりを考えているように言われがちだが、そんなことはない。

大きな組織も、たくさんの「人」でできていて、
その人たちは、自分たちの権益維持や給料をあげるためだけに働いているのではない。
戦争や災害のニュースに心を痛め、社会や世の中の求める声に対応し、少しでも良い方向になるにはどうしたらいいか、日々試行錯誤しているのである。

だけどやっぱり物事にはメリットデメリットがうまれるし、それについて判断するだけの情報提供や、我々は〇〇をしようと思っていて、これには〇〇というデメリットがあるけれども、〇〇という理由でやっぱりこれが最適解だと思う、という説明が足りていないことも多い。

世の中の対立や分断というのは、たいていはこうした説明不足や誤解から生まれていることも多いのではないだろうか。
(もっとも、その根底を深掘りしていくと、やっぱりどうやってもこの考えは受け入れられない、とか、どうやっても無理なものは無理、というイデオロギーの問題、人間の本質的な問題に行き着くのかもしれないけど…)

かなり個人的な背景に基づく例えだけど、例えば、以前SNSでインフルエンサーやアクティビストと言われる人たちが、米軍基地や自衛隊員の前で「戦争反対!」「ちょっと怖く感じた」とか言っているのをみるとちょっと悲しくなった。
だってそれはそうなっているだけの理由があるし、なにも国家や軍人だって戦争が是と思っているわけではないから。。

なにかに関心を抱いて意見を表明すること、自分なりの考えを発信することはとても素晴らしく重要なことである。
だからこそ、そうなっている理由とメリットとデメリット、単純にどっちがいい・悪いではなくて、今の自分達にとっての最適解をゼロベースで考えてみてほしいと感じた次第。

自分の活動を進めるにあたっても、一歩立ち止まって、少しだけもう一方の側を考えてみる、「脱構築」してみる、という視点をもっておきたいと思う。
そうすると、今の世の中を取り巻くあらゆる物事について、誰かのせいだけにはできないし、自分達自身が関わっていることだと感じられるように思う。
誰しもが関わっていて、誰しも要因、そして誰しもが解決方法になりえる。

そして、これをやるのがいいとか悪いとか、意味があるのかないのかとか、そうした考えは「脱構築」していけばいいのである。


なんだか小難しい話しになってしまったけど、
ちょうど先の本を読んでいるタイミングでマルタン・マルジェラの映画もみてめちゃくちゃインスパイアされた。
インディペンデントで前衛的、カウンターカルチャーであり、かつ内省的。
ファッションを「脱構築」しているということの意味がよく分かったし、マルジェラに熱狂する理由がわかった。
しかしファッションの性、そのマルジェラでさえも、古典化され記号化されている今日なのかも。
このことも追ってどこかに書き留めてみたい。






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