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碧梧桐はいつ當麻寺に訪れたか?〜當麻寺紀行〜

記:いけだ
※今のところなにもわからん、という結論の記事になります

1.當麻寺に訪れた碧梧桐

ずっと行ってみたいと思っていた當麻寺。
碧梧桐が行って紀行文に書いていたのが印象的だったからです。

その紀行文が、「大和を歩く」。
『煮くたれて』という、碧梧桐の随筆をまとめた、昭和10年11月に出版された本に収録されています。

この中に「藕糸曼陀羅」という章があります。これは碧梧桐が當麻寺に訪れたときの紀行文で、秘蔵の曼陀羅を見せてもらっています。興味深そうに拝観し、詳しく記録しています。

いつか私も行きたいな〜と思っていたところ、本記事冒頭の當麻寺さんのXの投稿を発見。
碧梧桐の俳句がクラウドファンディングの返礼品!?!?支援しなければ!!!

https://yell-rail.en-jine.com/projects/taimadera-nakanobou/rewards/41088

當麻寺さんのほうも、碧梧桐が来たこと認識しているんだ!とニコニコしたり、当時書いた書が残ってるんだ!と画像をまじまじ見たり。


ところで、Xの投稿によると、碧梧桐が當麻寺に訪れたのは昭和10年とのこと。
先程の『煮くたれて』の「大和を歩く」の文末には昭和8年1月とあります。つまりそれ以前にも訪れている?

2,3年離れてるとはいえ、結構短いスパンで當麻寺に訪れてるのだな〜と思い、
それを探訪舎メンバーに伝えると、こちらの資料をまきしまさんが見つけてくれました。

塔の吹きさらされて朱の肘木の肘を張り

この真蹟は大和の当麻寺に蔵されている。昭和八年の十二月関西の旅行中この寺に一泊している。『昭和日記』および『微笑子庵日記 碧梧桐滞留記』には「吹きさらされて塔の朱ケの肘木の肘の張り」とあるが、真蹟に残したのが後案である。

阿部喜三男著「俳句シリーズ 河東碧梧桐 人と作品6」南雲堂桜楓社 p.232

……「昭和八年の十二月関西の旅行中この寺に一泊している。」?
昭和8年12月?また違う年と月が。そんなに来ている……?流石にどれかが誤字か……?

なんだかよくわからなくなってきました。
行って聞いて確かめるしかない!

そんなとき、週末文学室で大阪に訪れていました。大阪から奈良ならすぐ行ける!
ということで週明けの月曜、やまもとさんと一緒に當麻寺に行って参りました。


因みに、我々が當麻寺に訪れた前日、「練供養」なるお祭が行われていました。
當麻寺の宝物館など見た後だと、成程……お祭見たかった!!になっています。1年待たないといけない。

2.當麻寺に参拝してきた

ということで當麻寺に参拝。

なんかもうすごく楽しかったです……!歴史の長さで今まで色々あったのをすべて内包して混沌としているが穏やかに全てがそこに存在する感じ(?)

色々楽しませていただいて全部書くとかなり長くなってしまうので、「東塔」のみ抜粋。

東塔

なんと奈良時代創建。奈良県はこのような古さのものがゴロゴロ残ってて凄い。別に拝観料なく普通に間近で見れる、そして特に説明の看板とかない奈良クオリティ。そういうとこが好きですね〜。

……奈良時代創建ということは、100年も経ってない昔と現代じゃあそんなに姿変わってない?

碧梧桐が當麻寺で呼んだ句「吹きさらされて塔の朱の肘木の肘を張り」の塔とは、この東塔です。
塔の経た長い年月と、ガチガチに保護固めずにほぼ真下から塔を見上げることができてしまう、ただそこに佇む様子に「吹きさらされて」を感じました。
そして画像ではわかりにくいですが「朱」色がとてもよく残っていて、塗り直しがいつ行われたかわかりませんが、きっと碧梧桐が見た東塔とほぼおなじものを見ているんじゃないか?と思いました。
俳句の写生対象となった、ほぼ姿形が変わらない建物を見られて感慨深いです。

「中之坊」に移動します。Xで該当ポストを投稿されていたのは、當麻寺の中でも「中之坊」でしたので、こちらで聞いてみようと思います。

この建物が中之坊かと思ったら門だった
門をくぐって進みます

受付で拝観料を納めて、お庭など拝観します。
こちらも広々で楽しませていただきました。

受付すぐの芭蕉句碑(これが今回の重要ポイントでしたが写真撮りませんでした……)を横目に、奥の末社(ここだけ唯一神社でした)やお庭、副住職による植物展示、牡丹園など見ながら……

庭園 香藕園
東塔と庭園が美しい
釈迢空(折口信夫)の歌碑
當麻寺の中之坊に滞在したことがあるとのこと
青畝さんの俳句(この前虚子記念文学館で取り上げられていた人だ!)  
終わりに、お抹茶をいただく
東塔が見える

3.碧梧桐は昭和10年に當麻寺に来たか?

さてお抹茶をおいしくいただいた後、受付に戻り今回の本題です。

「碧梧桐は當麻寺に昭和10年に来たとXでは記載されていましたが、日付がどこかに残っているんでしょうか?」

すると奥から貫主さん(と、チワワさん)が登場。

「他の資料には違う年が書いてあるのを見たけど、お寺の本には昭和10年って記録が残ってるんだよね」
と、一冊の本を見せていただきました。
あらたな資料の登場です。

中田善明著『道心の中に衣食あり』昭和51年1月 当麻寺中之坊発行

該当部分周辺の要約です。

●昭和9年
芭蕉句碑が建てられたのをきっかけに、俳人が當麻寺中之坊に集まり句会が催されるようになった。
●昭和10年
碧梧桐が中之坊に立ち寄り一泊したのもその流れ、芭蕉の寺だったから。
碧梧桐にとってはこれが最後の奈良旅行。當麻寺に残された作品は俳壇引退後の句で、貴重である。
●昭和11年
秋に大句会が行われ、同年10月17日〜25日には「現代俳画俳書展」が催された。俳人の虚子や碧梧桐、青木月斗や井泉水、作家からは里見弴や久米正雄、徳田秋声ほか、五十余点が展示された。……

『道心の中に衣食あり』要約

つまり當麻寺さん説によると、碧梧桐が當麻寺に来たのは、芭蕉の寺を目的としていたということになります。
芭蕉句碑が建つ(昭和9年)→芭蕉の寺になる→芭蕉に興味がある碧梧桐が来る(昭和10年)の流れです。

成程、こういうわけで昭和10年に碧梧桐が来たということになっているんですね。

ここで少し気になることが。
この當麻寺さんの記載の碧梧桐の奈良の旅=「大和を歩く」だと仮定(色々年代出ているが、當麻寺に来たのは1回だけだと考えてみる)した場合、少し齟齬が生じます。
この紀行文では、碧梧桐が當麻寺に来た理由は芭蕉の寺だったから、ではなさそうだからです。

(前略)
 次いで久米寺驛に出で、 けふ當麻寺で有名な中将姫の藕糸曼陀羅御開帳の間に合はすやう當麻寺へ急行せねばならなかった。

藕絲曼陀羅
 當麻寺中之坊の和尚さんへの挨拶もそこ/\、 客殿に開帳されてゐる、年に一二度しか人目には觸れないといふ秘蔵の藕絲曼陀羅を拝覽に行く。

(中略)

 茶味を帯びた精進料理に舌鼓を打ちながら、又た一酌、和尚さんと芭蕉の「野ざらし記行」を話題にして、夜の更くるを知らなかった。芭蕉は、その最初の行脚に、この地の千里なる俳人を訪ね、しばらくその客となつて、當麻寺にも参詣してゐるのである。
 翌朝、當村長で、千里の末裔であるといふ北川氏から、千里の物した「日損庵記」なるものを示された。芭蕉傍系の史料として、私には曼陀羅を拝観した以上の収穫であった。

河東碧梧桐著「大和を歩く」

本人の文によると、當麻寺に訪れた目的は「藕糸曼陀羅御開帳」です。
目的は曼陀羅ですが、芭蕉のことについても言及しています。ただ、たまたま話題にあがって収穫があった、という反応です。

この時点で芭蕉の寺であるならば、碧梧桐もそういう書き方をするんではないかしら!と思ったり。

ただいまこの當麻寺さんの記載の碧梧桐の奈良の旅=「大和を歩く」だと仮定してみましたが、実はこの仮定をするにも疑問点があり。

「大和を歩く」では、話題としては藕糸曼陀羅と芭蕉の2つのみで、あとは「境内の東塔、西塔、講堂、金堂、曼陀羅堂等の建築様式を巡覧して夜に入つた。」とあり、中之坊について言及がありません。
しかし現在、碧梧桐直筆の書が残っているのは中之坊です。
Xで「中之坊香藕園から見上げる塔を眺めこの句を詠んだ」と投稿があったので、恐らく中之坊に訪れているはずなのです。

また、當麻寺の本では、碧梧桐はこのときに洋画家の岡田三郎助氏と歓談とありますが、「大和を歩く」ではこの人物は登場しません。

やっぱり2回来てる……?

「大和を歩く」と「中之坊」で2回来てたとすると、阿部喜三男著の「河東碧梧桐」記載の昭和8年12月は中之坊で詠んだ俳句について言及しているため、「中之坊」でカウントするべきなんですよね〜…。
でも芭蕉句碑立ったの昭和9年だし……。

わけがわからなくなってきました。辻褄全然合わない。

4.碧梧桐が「大和を歩く」の旅をしたのは結局いつ?

中之坊にいつ来たかは一旦置いておいて、「大和を歩く」の旅がいつ行われたかについてです。

當麻寺から帰宅後、やまもとさんがこれは!という証言を見つけてくださいました。

瀧井孝作がまとめた碧梧桐随筆集『なつかしき人々』に「大和を歩く」の掲載があるのですが、この文の初掲載が(昭和9年1月「大阪時事新報」)とあります。昭和9年1月!?また新しい日付出てきてしまったぞ……。

ただ新聞社に掲載された、というのは結構信憑性が高い気がします。
瀧井孝作はこの随筆集をまとめるにあたり、それぞれの随筆の初出を調べて記載してくれており、ちゃんと調べられていそうです。あと個人的に瀧井孝作のことを信頼しています。 

『煮くたれて』のほうは昭和8年1月とありますので、もしかしてこっちが1年間違えた?

瀧井孝作を信じるとして、そうすると「大和を歩く」の旅は昭和9年1月以前、つまり旅したあとすぐ執筆したのであれば昭和8年のどこかで行っているはずです。

そうなると阿部喜三男著の「河東碧梧桐」記載の昭和8年12月が信憑性高いんですよね〜〜。
しかし阿部喜三男によるとこのタイミングで中之坊から見た東塔を詠んでいる=中之坊に行っていることになります。つまり昭和10年には行っていない……?

やっぱり當麻寺に来たのは1回なのか……?

まとめ(まとまらない)

混乱です、一旦整理します。
今までで出てきたことを時系列順に並べます。

●昭和8年1月
『煮くたれて』「大和を歩く」
碧梧桐、藕糸曼陀羅御開帳目的で當麻寺来訪
●昭和8年12月
阿部喜三男著「河東碧梧桐」
碧梧桐、東塔の俳句を詠む
●昭和9年1月
瀧井孝作編『なつかしき人々』「大和を歩く」
碧梧桐、藕糸曼陀羅御開帳目的で當麻寺来訪
●昭和9年4月
『道心の中に衣食あり』
當麻寺 芭蕉句碑建立
●昭和10年秋
『道心の中に衣食あり』
碧梧桐、東塔の俳句を詠む
●昭和10年11月
『煮くたれて』発行

少なくとも、新聞で紹介されているくらいですから昭和9年1月以前に、一度奈良旅行が行われているはずです。それは「大和を歩く」の旅になります。

もし碧梧桐の奈良の旅が1回だけなのであれば、それは恐らく昭和9年1月以前のものです。
芭蕉句碑の流れとは関係なしに来たのではないかと思います。

そして碧梧桐の奈良の旅が2回なのであれば、昭和9年1月以前昭和10年になるかと思います。芭蕉の寺になって再訪したのでしょうか。

昭和10年に来てるかどうかが気になるところです。このあたりを調べるとわかるか……?
・岡田三郎助氏の言及
・昭和8〜10年の奈良の地方新聞の記載

当時の他の文人さんでもそうだと思いますが、地方に行くと新聞の記事になるんですよね。
碧梧桐さんは旅人なのでしょっちゅう記事になっているようで、長野県に登山しに行った際、弟子が碧梧桐と合流できなくて地方新聞の記事で居場所を特定した、なんてこともあったみたいです。

現状の結論としては、わからん!になります。

この記事は覚書として残しておいて、なにか分かり次第更新しようと思います。

當麻寺、素敵な場所なのでぜひ訪れてみてください。
そしてクラウドファンディングもぜひ!(勝手に宣伝)

https://yell-rail.en-jine.com/projects/taimadera-nakanobou/rewards/41088

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