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嘘日記 あかつきの夢(#シロクマ文芸部)

 春の夢を彷徨うような早朝の散歩は踏みしめる道さえふわふわとしてどこか捉えどころがない。赤紫色と水色が混ざった空を吸い込んで酔っ払ったような気持ちになった私は千鳥足で神社に向かう。子供の頃から通う、馴染みの場所だ。
 左右対称に反り返った瓦屋根の下に紅白の紐が垂れている。ポケットいっぱいの五円玉を鷲掴みにして賽銭箱に放り投げると黄金色に光ってシャランシャランと澄んだ音をたてた。

 賽銭箱の横には、極彩色の龍がとぐろを巻いている。去年の年末に地区の老人会が制作したものらしい。大人の背丈ほどもある大きな作り物だ。確か、コロナウイルスが流行り始めた年にアマビエを寄贈してくれたのが始まりで、毎年来年の干支を作っては置いていってくれるという。ものづくりを仕事にしていた方が本気で作っているらしく、鱗の一枚一枚が光って見える。「置いておく場所がないんだよう」と神主さんが嘆いていたのを思い出した。田舎の神社の宝物庫が、干支の置物ライブラリになる日は近い。

 龍は賽銭箱にもたれかかりながらぴすうぴすうと寝息を立てて気持ちよさそうに寝ている。鈴を鳴らすために紐に伸ばしていた手を引っ込めた。起こしたら気の毒だ。鼻からが出た湯気で立派な髭がそよいでいる。「春眠暁を覚えず」というけれど、龍も春は眠いらしい。私と同じだ。なぜだか春は酷く眠い。昨日実家の母親が来て子供たちが騒いであんなに忙しかったのに、よく今朝起きられたものだと思う。

 いや、待てよ。おかしい。私はいつの間に起きたのだろう。記憶にない。昨日洗濯物を干せなかったことを思い出す。散歩の時に着るTシャツはまだ洗濯機の中じゃなかったか。何を着ているか確認しようとしたら目眩がした。ぐらりと世界が歪んだ。

 ぴすうぴすう。龍は相変わらず気持ちがよさそうに鼻から湯気を吹いている。そもそもこの湯気はなんだ。鼻息というより霧のような。

 ぴしゃん。水音を立てて龍が口から水を吹いた。変な龍だ。潮の匂いがする。「おかあさん」声がした。「おかあさんお腹空いた」。

 目が、あいた。天井が見える。起き上がる。布団の上だ。枕元のスマートフォンを見てひいと声が出た。朝ごはんを作っている時間がない。

 台所に駆け込むと娘が冷蔵庫を覗き込んでいる。牛乳とおやつ用の菓子パンを食べた後があった。しっかりものだ。「ごめん」と呼びかけると「お疲れ」と手を振られた。小生意気な子だ。私も何か食べなくては。

 床に置いてある発泡スチロールの箱に危うく足をひっかけかける。チャポンと音がして足に水がかかる。そうだ。この箱。昨日私が置いたものだ。塩水と、それから蛤が入っている。昨日母がお土産に持ってきてくれたものを砂出ししていた。

 ぴしゃん。蛤が殻から伸びた口で潮を吐く。蛤は口から蜃気楼を吐く、と古文の授業で見た気がする。もしかしたら、夢を吐いているのかもしれない。ぴすうぴすうと寝息を立てて。

ショートショート No.704

小牧幸助|小説・写真・暮らしさんの#シロクマ文芸部に参加しています。
今週のお題は「「春の夢」から始まる小説・詩歌・エッセイなどを自由に書」くです。