最遅本命発表~フェブラリーS編~

「縁を大事にして生きなさい」

小さな頃から、母親がずっと口を酸っぱくして俺に言い聞かせてきた言葉だ。
寺の坊さんでもあるまいし、何が縁じゃと思いながら生きてきた今日までの30年間。

まさか自分が、母の言葉をきっかけに本命馬を決めることになるなんて想像さえしていなかったものだ。

事のきっかけは先日、姉から届いた一通のメール。


“お母さんが倒れた”


そう記されたメールを受け取った時、俺は夕方のパチンコ屋で遊タイム発動まで残り200回転の牙狼を発見したことを理由に、友達からの飲みの誘いを断り黙々と遊タイム狙いに勤しんでいた。

縁は大事にしないが円は大事にする、母親の教えに対する完璧なアンチテーゼを掲げていた最中のことだった。

目前に迫った遊タイム発動を投げ捨てて、姉の待つ実家に帰るか否か。

この世で一番最低な迷いから俺を解放してくれたのは、天井到達目前の通常大当たりだった。

「何が期待値じゃクソが」

そんな言葉を吐き捨てながら、俺は急いで実家への帰路に就いた。
家に帰ってみると、母の看病をしながら姉が俺に状況を語ってくれた。大きな病気ではなく、日々の疲労の蓄積による発熱とのことだ。

無理もないだろう。
父親が病を患ってからも現役で働き続け、毎日父の世話もしながら母は生活している。
時折実家に顔を出した時も、翌日の仕事に備えて早くに眠る母とはあまりまとまった話をする時間も無かった。

家に帰ってきた俺を見て、母親は少しだけ嬉しそうな顔をしていたように思う。

少しだけ俺の家庭事情に触れておくと、俺は長年父親との確執に苦しんでいた。
昔気質で港町育ちの父は、息子にも自分のように一本筋の通った男になってくれていることを望んでいたのだろう。
実際の所はと言えば、駄目息子は人生の目標さえも見つけられず、流されるようにフリーターになった。

あの頃の俺は、家にも学校にも居場所がなく暗闇の中を手探りで歩いているような感覚だった。

そう、正に2010年代の横浜ベイスターズの正捕手争いのように。

新沼派、細山田派、武山派、黒羽根派。

当時2ちゃんねるの横浜ベイスターズスレにおいて、四大派閥に分かれての終わりのない正捕手論争が繰り広げられていた。
不毛な争いとは、正にこのような状況のことを言うのだろう。

それはまるで、当たりの入っていないクジ引きのような行い。

それはまるで、GOGOランプの電球が切れたジャグラーを回し続けるような行い。

あの頃の俺たちは、出口のない迷路を彷徨い続けていたんだ。
一週間に一度も白星を挙げることさえできないことも珍しくはなく、ほんのわずかなポジティブ要素を探しては、パンくずに群がる鳩のように満ちない空腹を満たしていた。

「下園の選球眼は球界でも屈指」

こんな小さなポジ要素で、俺たちは不遇の冬を耐え忍んでいた。
強豪球団のファン達にはにわかには信じられない話だろうが、紛うことなき真実だ。
勝利の栄光の陰には、いつだって泥水をすする敗者の涙があることを忘れるな。

この絶望的な正捕手論争に終止符が打たれたのは、2012年のこと。
転機は突然に訪れた。


“横浜ベイスターズから、DeNAベイスターズへ”


親会社の変更に伴い誕生した新生ベイスターズに加入したのは、かつて横浜に在籍した鶴岡だ。
勝負強い打撃と、強豪球団にて揉まれた経験により、鶴岡は瞬く間に正捕手の座に君臨した。
しかし、今になって思えば鶴岡も悪い捕手ではないが、問答無用で鶴岡が正捕手に君臨してしまうチーム事情も闇は深い。

無理はないだろう。
俺たちは電球切れのジャグラーを打ち続けていたのだから、そこに設定1のジャグラーが導入されれば飛びついてしまうに決まっている。

自厩舎の馬に乗せられるのが木幡育也と木幡初也の二択しか存在していなかった所に急遽木幡巧也も乗せられるとわかれば、木幡巧也という存在が輝いて見えるのと同じことだ。


少々話が脱線してしまったが、話を本題に戻そう。
やがて俺は競馬に熱中し、競馬という共通の話題をきっかけに、生粋の競馬ファンである父との和解に成功し、数十年ぶりに親子らしい会話ができるようになった。

親孝行を地でできるような立派な息子ではないが、こんなろくでもない息子の帰省を喜んでくれる母の顔を見て、何気なくこんな言葉が口をついて出てきた。


「たまには、親父と三人でメシでも食おうか」


普段は自室で食事を取る父にも同じ言葉を伝えると、父は照れくさそうにしながらも、やはりどこか嬉しそうにしているように見えたのは、想い過ごしだったのだろうか。


両親と揃って食卓を囲むのは、本当に十数年ぶりのことだったように思う。
父と母は、ずっと穏やかな顔で俺の話を聞いてくれていた。

クズみたいな生活をしていた頃は、早く家を出るのが親孝行だと思っていた。
曲がりなりにも自分の稼ぎで生きられるようになった今は、こうして家に帰ることが親孝行だと思えていた。

たくさんの、話をした。
どこにも居場所のなかった俺が、最近は競馬という共通のコンテンツを通じてTwitterにて多くの優しい仲間と出会えたこと。
出不精でネトゲ廃人だった俺が、今ではそんな仲間達と時折競馬場へと足を運ぶようになったこと。

母は、俺の話す全てをただ微笑ましく頷いてくれていた。
相変わらず競馬の話題になると妥協を許さない父は、俺に尋ねた。


『つまり今、お前は予想家をしているのか?』


俺は笑いながら、答えた。


「まさか、そんなんじゃないよ。
予想の実力も俺にはないし、何より他人に自分の予想を公表するプレッシャーが怖いよ。
ネットにはおっかないアンチもたくさんいるし」


父は俺の言葉を聞いて、更に続けた。


『舞台が変わっただけで、競馬界は今も昔も変わらんな。
予想家は持て囃され、脚光を浴びると同時に憎しみの対象にもなりやすい。
対価を得ている以上、消費者を軽んじれば非難を受けるのも致し方ない。
性質の悪いクレーマーが多いのも、今に始まった話ではない。
人間に備えられた欲求の中で、最も厄介な欲求とは何だと思う。
答えは承認欲求だ。そして、人は自分が満たすことのできぬ欲を満たしている人間が許せなくなってしまうものだ。
つまり、人気者に対する妬み憎しみの裏側には“そうなりたくともなれなかった自分”への苛立ちが多かれ少なかれ、含まれている。
いつ何時であれ、等身大の自分でありなさい。競馬が上手くとも上手くなかろうとも、人としての価値は変わらぬ。奢り高ぶらず、競馬を楽しめ息子よ』


…もしかして親父、Twitterに競馬アカでも持ってる?
そんなことを思いつつ、俺は父親の話を聞き流しながら、自分でも理由はわからないのだが、母にこんな質問をしていた。


「そういえばさ、二人ってどうやって出会ったの?」


…両親の馴れ初めなど、聞いても一文の得にもならない。
だが、今にして思えば自分がこんな質問をしていたのは、きっと心のどこかでわかっていたからなのだろう。
こうして老いた両親と共に会話をできる時間は、無限に残されている訳ではないということを。

息子からの思わぬ問いに母は一瞬驚きながらも、照れ隠しで自室に戻る父を尻目に二人の馴れ初めを語り始めてくれた。

母が語るエピソードは、俺にとっては初めて知る事実ばかりだった。

母は北海道、石狩湾で漁業に携わる家に生まれた。
海産物の加工や販売に携わり、海の男たちの中で働く女だったそうな。

一方で父は沖縄県、名護湾で代々漁業を営む家系に生まれた。
昔気質な性分はここで培われたものらしく、女々しい男を許さぬ父親になったことも納得がゆく。

石狩湾と名護湾。

日本地図で言えばほぼ最北端と最南端と言っても過言ではない、遠く離れた湾で生きる二人が出会うことになったのは、父が町の商店街で北海道旅行のクジ引きを当てたことがきっかけだったと、母は目を細めて語ってくれた。

父曰く、港町を訪ねた際に一目惚れをした母親から告白されたとのことだった。

母曰く、港町を訪れた父親からの半ば強引な告白を受けたとのことだった。

二人の性格をよく知る俺には、どちらが真実を伝えてくれたのかはすぐにわかったが、とにもかくにもほんの一瞬にして二人は恋に落ちたそうな。
以降は文通で仲を深め、一家の長男として家業を継いでいた父は母を名護湾へと招き、母も父の申し入れを喜んで受け入れたそうだ。

だが、母の生まれ育った地域では女は地元の漁師に嫁ぐのことが慣習となっており、母の決意を肯定してくれる者は誰一人としていなかったらしい。
それどころか、仕来りを破る愚か者として非難轟々だったそうな。

老後は田舎でのんびりライフなんて話もよく聞くが、こういう村社会的な陰湿さは今も色濃く残る地域も少なくはないことだろう。


しかし、それでも母の決意は揺らぐことはなかったらしい。
友人だけでなく、血縁者を含めた親族に至るまで、あらゆる縁を絶縁した上で母は生まれ育った石狩湾を飛び出し、父の暮らす名護湾へと旅立ち、一つの愛を成就させたのだ。

ほんの一瞬の一目惚れで恋した相手の為に、自分の全てを投げ出す決断を果たして俺はできるだろうか。

…いや、カッコつけて「できるだろうか」とか言ったけど無理無理。
100%余裕で断言できる、住み慣れた地域でぬくぬくと甘やかされて生きていきたい俺としては絶対に無理。

母に決断の理由を問うと、


「石狩湾と名護湾、二つの湾で生きる者同士。
あんな風に偶然に出逢うなんて、それはもう“ご縁”で結ばれてると思えたもの」


スピリチュアルすぎるだろ、マイマザー。
縁よりも円、極限のリアリストとして生きてきた俺は母の返答に度肝を抜かれていたが、そんな俺を尻目に母は続けてこう語った。


「石狩湾から名護湾へ飛び出して、本当に実の家族とも連絡を取り合うことはなくなったんだけどさ。
生まれたばかりのあなたを胸に抱えて石狩に帰ってさ。オンオン泣いてるあなたを見て、結局みんな許してくれたの。
頑固なお父さんも、あの時ばかりは私の親戚一同に頭下げて回って大変だったんだから」


理由を言葉に変えるのは難しいのだが、母の言葉を聞いている内に何故だか気付けば俺は泣いていた。


“父がもしもクジ引きで北海道旅行を引き当てていなかったら”

“母が生まれ故郷を飛び出す決断をしていなかったら”


数十年前、そこに一つでも違う歴史が刻まれていたら今の俺はここにいない。
奇跡なんて言葉じゃ足りないぐらいの奇跡が重なり合い、そして一人の女性の人生を懸けた決断の末に俺は今、こうして生きてる。

人生で初めて自分の誕生のルーツを聞き、翌日には母の体調も快復していたこともあり、俺は実家を後にし、帰路に就いた。

最後に、家を出て行く俺に母はこんな言葉をかけてくれた。


「体に気を付けなさい。

そして、ご縁を大事にして生きなさい」


背中で母の言葉に頷きながら、バスに揺られて家に帰る途中。
帰宅の共にと買った競馬新聞では、フェブラリーステークスの特集が組まれていた。

正直に言って、このレースの本命馬を決める自信が俺には無かった。
拮抗した上位人気馬、そして侮れない穴馬たち。
勝負レースから外すことさえ検討していたのも事実だ。


しかし、脳裏に浮かぶのは母がくれた大切な言葉。


母には迷惑ばかりかけてきた自覚がある。
もしも、今からでも遅くないのだとしたら、母の息子として胸を張って俺は生きていきたい。


だから母さん、俺はこの馬を本命にするよ。


【スワーヴアラミス】


湾から湾へ

一つの純愛を求めて旅立った母親から俺は生まれた。


もしかしたら、君の母親も同じような運命を歩んだのかもしれない。


父:ハーツクライ

そして母:Bay to Bay


湾から湾へと紡がれた物語。

この数奇な巡り合わせを、俺は信じてみたい。

偉大な母のようにご縁を大事にして生きるって、俺は決めたから。

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