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ご飯を食べている #未来のためにできること

米ひと粒には7人の神様が宿っていると言われる。
これには諸説あり、例えば「七福神」だとか、あるいは「水、土、風、虫、太陽、雲、作り手」などといった具合である。

米を粗末にしないよう、それを戒めるために作られた言葉だろう。

これに限らず昔の人は、大切にしている事象に"神様"を割り当て、あらゆる物事、場所や伝統、ひいては生活を守ってきたように感じる。

神社に行ってもお参りせず、そこにいる猫を愛でるだけで、一礼もせず出て行くような、極めて信心深くない私でさえも、その神通力のようなものにより、最後のひと粒まで大切に食べようといった気持ちにはなるし、実際にそうしているが、もっともそれは、私が"米屋"で働いていることに所以する部分が大きいのかもしれない。

そう、私は米屋で働いている  

しかし、生産者ではない。

米に対する愛情は、他の人よりはある、といった程度だろう。
当然だが、実際に育てて作っているか否か、その差は大きい。

それは、農家さんの根幹であり、仕事であり、"それでご飯を食べている"。
ご飯をおかずにご飯を食べているみたいな言い方になってしまった。なっていないか。

いかにも、かく言う私は、その農家さんのお米でご飯を、"食べさせてもらっている"。

「〜でご飯を食べている」
当然だが、その"ご飯"がなければ、何をもってしても、食べることはできない。

今では比喩的な表現であるが、そのご飯に当たるものが、昔はまさしく"米"であった。

天候不良を憂いて祈りを捧げたり、そうした中で出来上がった作物は、自然からの贈り物として皆に有り難がられ、そこには確かに、神が宿っていた。

しかし、供給が安定し、また、圧倒的に食の選択肢も広がると、少なくとも私たち消費者の前からは、その神様は消えてしまった。

温暖化を始めとする異常気象は、環境破壊に起因していると言われる。
実際に生育不良が増えているが、それが原因の全てとは限らず、あるいは、ある程度は自然の摂理として、ひょっとしたら、どの道、結局は先細りする運命である可能性もなくはない。

いずれにせよ今後、これまでのような潤沢な食の選択が出来なくなる可能性は、十分に有り得る。
ただ、あくまでこれは、大まかに日本においてのことで、現状が恵まれている側の話である。

それらを踏まえれば尚のこと、今、目の前にある食に有り難みを感じることは大切で、そしてそれは、私が払うべき、最低限の礼儀とも思う。

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