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奨学金は少額ではなく多額な大額(大学)金

幼少期から特別な教育を受けてきたような人たちは往々にして東大や京大などを始めとする学費の安い国立大学に入れたりするが、その教育を施せる家庭は往々にして、金持ちである。
実際の統計は知らないが、きっと、どうせそうだろうという、偏見混じりのイメージだ。

かたや、奨学金を利用してそこそこの私立大学へ入り、その借金を20年くらい払い続ける庶民。
正攻法ではその差は縮まりそうもない。

金持ちは得しかしない。
金持ちしか勝たん。
最近、この「〜しか勝たん」という言い回しが逆にツボである。
そしてもちろん、痛みを伴わずに私立大学へも行ける。

奨学金は是非が問われるもので、その返済で苦しむ人たちは自業自得だとの見方をされる面もあるが、言っても学歴社会だし、若い頃より「大学大学」と洗脳されて、石ころ投げれば当たる程に乱立していれば、それは無理を押してでも入ろうとの選択に至るのは、もう避けようもなく仕方がないし、あるいは自然とも言える。
それでも実際、後先考えずに安易に利用してしまったがゆえの、あまり同情できない例は多いのだろうが、大学はおろか、働いているのか働いていないのかといった時期を長く過ごしてきた、Theピーズの「生きのばし」という曲のような、と言うと少々かっこ良さげだが、そんな感じの私からすれば、働いてそれの返済に努める人たちは断然立派であり、また、それは自業自得だったとしても、決して間違いとか失敗ではないように思う。

そして、きちんと勝負をしている人たちである。

大学にすら行っていない私はもちろん、そのような土俵とはおよそ縁遠い。
そもそも"まわし"すら着けていないのだろう。
加えて短髪だからマゲを結えるまで時間もかかるし、塩の撒き加減もわからないし、体重60キロ台前半だし、40過ぎて食もめっきり細くなった。

それ以前に国技館の場内にすら入っておらず、その取組の姿も見ることのないレベルの人間と言える。
とりあえず両国駅には降り立って、ちょろちょろ散歩をしている感じだろうか。
冗談みたいな表現となったが、あながち外れていない。

そしていつまでもその周りをちょろちょろ散歩し続けて、たまに落ちている"おこぼれ"を掠め取るように拾い集める生活を最期まで送り続けるのだろうが、これはこれでまた、気楽で良いものだ。

でも、やはり「奨学金」という名称は良くない。音が"少額"だし。
大学の金で"大学金"、転じて「大額金」。
いっそ大学の借金、略して「大借金」くらいにしておけば、皆、きちんと熟考すると思う。

でも実際、10代でおよそ400万強の借金って、大借金だ。

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