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「天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも」は真備×仲麻呂なのです!

阿倍 仲麻呂[1](あべ の なかまろ、文武天皇2年〈698年〉[2] - 宝亀元年〈770年〉1月)は、奈良時代の遣唐留学生。姓は朝臣。筑紫大宰帥・阿倍比羅夫の孫。中務大輔・阿倍船守の長男[3]。弟に阿倍帯麻呂がいる。
唐名を「朝衡[4]/晁衡」(ちょうこう)とする。唐で国家の試験に合格または推挙で登用され[5]唐朝において諸官を歴任して高官に登ったが、日本への帰国を果たせずに唐で客死した。

阿倍仲麻呂 - Wikipedia

文武天皇2年(698年)阿倍船守の長男として大和国に生まれ、若くして学才を謳われた。霊亀3年・養老元年(717年)多治比県守が率いる第9次[6]遣唐使に同行して唐の都・長安に留学する。同次の留学生には吉備真備や玄昉、井真成がいた[7]。
唐の太学で学び科挙に合格または推挙で登用され、唐の玄宗に仕える。神亀2年(725年)洛陽の司経局校書として任官、神亀5年(728年)左拾遺、天平3年(731年)左補闕と官職を重ねた。仲麻呂は唐の朝廷で主に文学畑の役職を務めたことから李白・王維・儲光羲ら数多くの唐詩人と親交していたらしく、『全唐詩』には彼に関する唐詩人の作品が現存している。

阿倍仲麻呂と吉備真備は一緒に唐に渡ったのです。

持統天皇9年(695年)備中国下道郡也多郷(八田村)土師谷天原(現在の岡山県倉敷市真備町箭田)に生まれる[5]。
元正朝の霊亀2年(716年)第9次遣唐使の留学生となり、翌養老元年(717年)に阿倍仲麻呂・玄昉らと共に入唐する。唐にて学ぶこと18年に及び、この間に経書と史書のほか、天文学・音楽・兵学などの諸学問を幅広く学んだ。ただし、真備の入唐当時の年齢と唐の学令(原則は14歳から19歳までとされていた)との兼ね合いから、太学や四門学などの正規の学校への入学が許されなかった可能性が高く、若い仲麻呂や僧侶である玄昉と異なって苦学を余儀なくされたと思われる[6]。唐では知識人として名を馳せ、遣唐留学生の中で唐で名を上げたのは真備と阿倍仲麻呂のただ二人のみと言われるほどであった[7]。

吉備真備 - Wikipedia

仲麻呂が若いといっても3歳しか違わないのです。

聖武朝の天平6年(734年)10月に第10次遣唐使の帰国に伴って玄昉と同船で帰途に就き、途中で種子島に漂着するが、翌天平7年(735年)4月に多くの典籍を携えて帰朝した

吉備真備はまた唐にやってきて、日本に帰れましたが、仲麻呂は船が難破したため、唐に戻ってそのまま死んだのです。

一方、同年には第12次遣唐使が派遣されることになり、大使に藤原清河、副使に大伴古麻呂が任命される。ところが、翌天平勝宝3年(751年)になると真備が追加の副使に任ぜられるが、副使が2名となるだけでなく、大使・藤原清河(従四位下)より副使・吉備真備(従四位上)の方が位階が上という異例の人事であった。結局、天平勝宝4年(752年)出航直前に藤原清河を正四位下(二階)、大伴古麻呂を従四位上(四階)と大幅に昇進させて、体裁が整えられている[14]。同年真備らは再び危険な航海を経て入唐する。唐では高官に昇っていた阿倍仲麻呂の尽力もあり、仲麻呂を案内者として宮殿の府庫の一切の見学が許されたほか、帰国に当たっては鴻臚卿・蒋挑捥が揚州まで同行するなど、破格の厚遇を得られたという[15]。翌天平勝宝5年(753年)6月頃に遣唐使節一行は帰国の途に就き、11月に蘇州から日本へ向けて出航、真備は第三船に乗船すると[16]、鑑真と同じく屋久島へ漂着し、さらに紀伊国牟漏埼(現在の和歌山県東牟婁郡太地町)を経由して、何とか無事に帰朝した[17]。なお、この帰途では大使・藤原清河や阿倍仲麻呂らの船は帰国に失敗し、唐に戻されている。

💛

天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも

天の「原」は何もないだだっ広いところなのです。三笠の「山」と対比されているのです。

春日

分類地名
今の奈良市の中心地区に当たる、平城京の東方一帯の地域。春日山・春日野は平城京の官人の野遊びの地であった。

春日の意味 - 古文辞書 - Weblio古語辞典

はる-ひ 【春日】
名詞
春の日。春の一日。[季語] 春。
出典万葉集 四二九二
「うらうらに照れるはるひに雲雀(ひばり)上がり心悲しも独りし思へば」
[訳] ⇒うらうらに…。
はる-ひ 【春日】
分類枕詞
春の日がかすむ意から、同音を含む地名「春日(かすが)」にかかる。「春日(はるひ)の」「春日(はるひ)を」とも。「はるひ春日(かすが)」
参考「春日」と書いて「かすが」と読むのは、「飛鳥(あすか)」同様に、「かすが」にかかる枕詞(まくらことば)「春日(はるひ)」の文字を当てたため。

はるひの意味 - 古文辞書 - Weblio古語辞典

一般的には「春日」は地名だと解釈されていますが、本当は「はるひ」なのです。春の日が霞むのは黄砂のためなのです。

黄砂(こうさ、おうさ[注釈 1]、黄沙とも)とは、特に中国を中心とした東アジア内陸部の砂漠または乾燥地域の砂塵が強風を伴う砂塵嵐(砂嵐[注釈 2])などによって上空に巻き上げられ、春を中心に東アジアなどの広範囲に飛散し、地上に降り注ぐ気象現象。あるいは、この現象で飛散した砂自体のことである[2]。

「三笠」も三笠山というより、祖父ゆかりの大宰府のある「御笠(みかさ)」なのです。

左上に「御笠」、右上に「団印」の2文字が縦方向に篆(てん)書で表されています。「団」とは奈良時代の律令で定められた軍団を示していると考えられます。奈良時代の筑前国には4つの軍団があったとされ、この御笠団印は軍団を裏付ける大変貴重な資料といえます。

御笠団印 文化遺産オンライン (nii.ac.jp)
  • 天の/御笠の

  • 原に/山に

  • 砂で霞む/出し

  • 日/月

こういう対比なのです。天=唐、みかさ=日本なのです。唐を見渡しても自分(仲麻呂)には並ぶものがいないが砂で霞んでおり、みかさの山=吉備真備のそばにいてこそ煌々と輝くのだ、と詠んでいるのです。

帰朝しても真備は中央政界での活躍は許されず、天平勝宝6年(754年)正四位下・大宰大弐に叙任されてまたもや九州地方に下向する。この頃、日本と対等の立場を求める新羅との緊張関係が増していたことから、近い将来の新羅との交戦の可能性も予見し、その防備のために真備を大宰府に赴任させたとの見方がある。10年近くに亘る大宰府赴任中、大宰帥は石川年足・藤原真楯・阿倍沙弥麻呂・船王・藤原真先の5人だったが、船王以外はいずれも参議兼官であったことから、真備が大宰府の実質的な責任者であったとみられる[18]。

仲麻呂の作品としては、「天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも」が百人一首にも選ばれている。この歌は『今昔物語集』や『古今和歌集』などに採録され、後者の「後序」によれば、天平勝宝5年(753年)帰国のために明州までやってきた仲麻呂が送別の宴で王維ら友人の前で日本語で詠った歌とされていて通説となっている[18]。しかし、『唐大和上東征伝』では、蘇州から出発したはずで『古今和歌集』左注の明州は虚構だとの指摘がある[19]。内容も、日中の過去と現在の月が二重写しになっていて、後の遭難でついに帰国することができなかった哀切が先取りされていて、不審との意見がある[20]。紀貫之による創作との見解もある[21]。繁原央は「必ずしも別れの席で歌を詠んだとは限らず、作り置きをしていたのではないか」という説を提唱している[22]。また繁原は、仲麻呂の乗った船が難破したという情報を得た李白が「哭晁卿衡」と題する七言絶句の中で「明月不帰沈碧海」と詠み、仲麻呂を「明月」と喩えていることから、仲麻呂の詠んだ望郷歌に関する話も聞いていただろうとした[22]。

仲麻呂が詠んだとされるのは出発前であり、帰朝した真備が下向する前年ですが、真備が大宰府に最適任者であり、叙任されることはわかっていたのです。なぜなら仲麻呂は文人だが、真備は軍事を学んだ武人であり、真備×仲麻呂なのです。自分も真備と一緒に大宰府に行きたいのです。

「王維ら友人の前で日本語で詠っ」ても、唐には技巧を理解できるのは誰もいないため「砂で霞む」のですが、李白には一目瞭然だったのです。つまり天才詩人の李白は日本語もマンモスできたのです。

李家烈は、李白が儒教を揶揄する詩を書くなど漢人の儒教文化と矛盾する言動をおこなっていること、「唐王朝と辺境民族との戦争に対する態度は、漢人と他民族を区別する分水嶺である。李白の態度は明確で、漢人の『夷夏之防』という観念は微塵もない。…明確に辺境戦争に反対している」ことなどが李白が中国人ではないことを証明していると指摘している[10]。陳三平(コロンビア大学)は、「李白が中国人ではないことは周知の事実」と述べている[11]。

李白 - Wikipedia

仲麻呂と李白は同じ境遇であり、通じるものがあったのです。

王維には『竹里館』という詩があるのです。

獨坐幽篁裏,彈琴復長嘯。
深林人不知,明月來相照。

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