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PLAYBACK2010春_MVP石山智也投手(北海道大学)

北海道の大学野球のルーツ校である北海道大学(以下北大)。2023年秋季リーグ戦では、2022年春季リーグ戦で一部に復帰した後、はじめてAクラス3位への躍進をはたした。試合の終盤に、そして、順位争いが混沌としてくるシーズンの後半、しぶとさが持ち味。

北大の歴史を紐解くと、これまで(2024年3月時点)、全国大会へ4回駒を進めている。最初が1965年(昭和40年)、2回目は1983年(昭和58年)、3回目は2002年(平成14年)。そして、現時点では最後であり、同時に、全国で最も勝ち進んだのが、第59回全日本大学野球選手権大会で8強へ進出した2010年(平成22年)の春である。

このときの春季リーグ戦最高殊勲選手賞、さらには最優秀投手賞とベストナインに選出されたのが北大の石山智也。現在は札幌藻岩高校で教鞭をとる傍らで硬式野球部監督をつとめている。

北大2010年の躍進にフライバイすべく、札幌藻岩高校へ石山を訪ねる。高校野球の終わりから、春季リーグ戦、そして、全日本大学野球選手権大会を振り返ってもらった。

◇北広島高校時代、最初の“延長14回”

石山の高校野球は6月で幕を閉じている。2006年(平成18年)6月28日、相手は恵庭北。延長14回の末、5-6で敗戦。石山は二番、捕手で出場。試合終盤、二度の決定機に打席を迎えるも、いずれも凡退。最後の打席も「僕が三振して終わり(笑)」。ほんの昨日のできごとのように、淀みなく発せられる言葉が心地よく耳に届く。この試合「延長入った時にピッチャーいけるか」と監督から声がかかっていたという。しかし石山がマウンドへ上がることはなかった。「ピッチャーの練習そんなしていなくて、キャッチャーだったので。エースともうひとり、二枚看板のピッチャーで負けるのなら納得だけれども。練習していない僕で負けるのはちょっと。僕は彼らに申し訳ないですって言って。監督が『そうか』となり、投げなかったんですよ。ずっとキャッチャーで。で、今でも飲んだ時には『あそこでお前を投げさせたらな』って言われます(笑)いまだに」それから4年後、このとき固辞した円山のマウンドへ上がることになるのだが、もちろん、それは後のはなし。

◇そもそも、北広島高校を進路としたのも・・・

「当時監督してたのが広田先生という方、広田先生に教わりたいなと」いうのが北広島高校を志望した理由とのこと。

広田定憲、1983年(昭和53年)北大2回目の全日本出場時のキャプテン、その人である。

◇北大入学当時~投手転向まで

自策自援

「自分がプレーするというよりも、(将来は)指導者になろうって、その時(大学入学時)から決めてたんですよね、なりたいなと。だから、イメージ感は自分の体を、なんて言うんですかね、商品じゃないですけど、自分で試して、どうやったらできるかなってのを、学びたいと思ってたんですよ、当時から。なので、大学4年できっぱりやめて教員になろうと思っていたので、 そういう目線でいました。トレーニングとかも自分の体で試して。で、データとってましたし、どういう風にやったら変わるかなと」

4人の同期捕手

「同期でキャッチャーが4人入ったんですよ。で、最終的に吉本、札幌南から来た。彼はもう間違いなくいいキャッチャーなんですよ。歴代の中で一番、出会った中でいいキャッチャーです。社会人時代も含め。5番を打っていた紺野、それからもうひとり。(石山を含めて)キャッチャーが4人いて、 この中でいても多分、僕(キャッチャーでは)出れないなって」

投手転向へ

そんな中、チームは投手不在の時期を迎える。「140キロぐらい投げるピッチャーが3、4人いて、ずっとその人たちが投げていたのが、ぽろっと(卒業で)いなくなって。ピッチャーはいたんですけど。佐藤輝くんとか。でも、実践経験が豊富じゃないピッチャーがたくさんいたんですね。枚数も少なかった。僕もマウンドに出られていなかった」というのが当時の状況。そして「僕は大学4年で野球やめますと。指導者になる。じゃあ、最後の一年、チームとして神宮で勝ちたいっていう目標を掲げる時に、どれが自分として一番貢献できる道なのかな。 そして、自分も後悔しないっていうか、納得できるのかなってなったら、ピッチャーだったら、出られる可能性があるかと。肩強いし(笑)。チームとしても(投手が)少ないから、一番チームに役に立てるかなって思って『転向します』っていう話をしたんです」と言う。これが投手石山が誕生する背景。

“投手石山”誕生の伏線となった“南北戦”

また、北大内の部内マッチ“南北戦”で2年時、3年時に好投していたのも、投手石山誕生への伏線となったようだ。「めちゃくちゃ抑えられて、 これいいんじゃね、みたいな感じがあったんですよ、実は2年生の頃に。その感覚も自分としてもあって。バンバンストライク入るし、スライダー切れてたので、これいいんじゃないか」と。ちなみに“南北戦”とは出身校別に東西南北に分かれて行われる一戦とのこと。北広島出身の石山は北チーム、札幌南出身の選手であれば南チームといった振り分けで行われるとのこと。

◇春季リーグ戦を振り返って

この一球をなくすべ

「僕が一番印象に残ってるのは初戦(対北海学園大学)なんです。この試合、取りこぼしたけれど、取りこぼし方は悪くなかったと思うんですよね。2対1で。負けた原因は僕なんですけど。(8回表)ワンアウト3塁のシーンがあって。最後の決勝点かな、3番バッターにツーボールかなんかになったんですよね。で、そこから、簡単にストライク取り行ったんすよ、僕。それを、ばっこし打たれて、右中間に三塁打たれたんですよ。それが決勝点だったかと・・・。 あの一球が本当に悔やまれて。あそこで簡単に一球とっちゃダメなんだっていうのを、その場で学んで、 キャッチャーの吉本もすぐそれをわかっていて『あそこの一球だって、この一球絶対なくすべ』って、チームで話をしたのは覚えてます」一方で、公式戦初登板での好投。自身もチームメイトも『いけそうだ』との感触も得たという。

『感触を得た』についての補足。初戦の相手北海学園大学は前季(2009年秋)の優勝チーム。一方の北大は前季最下位であった。前季の対戦成績は一節0-2、二節1-2(延長12回)で二試合ともに学園が勝利。ちなみに二節対戦時、二番手捕手としてマスクをかぶっていたのが石山である。

感触は正しかった。北大は2戦目以降を9連勝。石山も5勝を挙げる活躍。2002年春以来8年ぶりに札六を制覇することになる。

勝った試合よりも負けた試合が印象に留まる一戦となっている理由が『学んだ』という点であるなら、ここにひとつ北大のしぶとさの秘密の種が隠れていそうな気がする。

◇全日本大学野球選手権大会を振り返って

マウンドから見た応援席

「東京ドームはいい景色でしたね、初めて投げさせてもらって。応援団がやっぱりすごいですよ、ありがたかったですよ、スタンド一面にOBの方が来て。あの景色は忘れないですね。自分が投げた景色よりかは。“あそこから応援席を見た”、神宮も同じです。神宮のスタンドもすごい。当時の八戸大学の監督さんもインタビューで言ってたんですけど『もう球場全体が北大の応援ムードになる』っていう、完全アウェイになるっていうのを、なんかその場で体感しました。 みんなが応援してくれてるなって。なんだろう、これゾーンに入るっていう。ゾーに入る。なんか甲子園でもよくあるじゃないですか。あれはやっぱ体験した人にしかわからない。それがすごく印象的。スタンドの景色が」

二度目の“延長14回”

初戦四国学院戦を3-1で勝利、続く広島経済大戦も3-1で勝利。北大は神宮へ駒を進める。四強進出を懸けて八戸大学との一戦へ挑んだ。北大は1点を追う8回表に同点に追い付く粘りをみせて試合は延長戦へ。『相手のベンチは声が出ていていいチーム。投げにくかったし、ずっとしんどかった』と相手エース(塩見、元東北楽天ゴールデンイーグルス)を追い詰めるも、延長14回にサヨナラ負け。当時の北海道新聞には『奮闘北大1球に泣く』の見出しが。この試合の石山は5回途中まで投げて被安打5、失点2。

◇大学野球を振り返って

大学の野球が本当に面白かった

「大学の野球が本当に面白かったです、学びがあって。 普通に考えたら(北大は)最下位じゃないですか(笑)でも、3位とかになるっていう、1位のチームに 1点差で勝ったりする、でも、気づいたらコールド負けて、ボロッボロで負けたりもするんですね。それは面白くて、やりようによっては戦えるんですよね。相手研究して、弱点を突いて1点とる泥臭い野球で。高校時代は何も考えてなかったってのは、振り返るとやっぱそこなんですよ。走塁の細かさとか、打球判断とか、打てないとこに通す技術とか。それを大学で知って面白いなって思いました。僕は」

北大のしぶとさに水を向けると「なんなんでしょうね」と言葉を添えながら答えてくれた。

「1年生の頃の4年生が、やはりイズムを継承してくれて、野球観であったり、そういうものを教えていただいて。2年生に上がった時の4年生にもプレーで見させてもらいながら、あとはどういう風に野球に向き合っていくのかっていうところを、 野球の深さを教えていただいて」

「甲子園出ているメンバーが他大学にはたくさんいるんですけど、北大にはいないんですよ。で、まずは、名前で負けないってことは、やっぱり大学の頃に学びました。関係ない、全然関係ない。その先入観なんか全くいらない。それを1年で取っ払って・・・したら意外と戦えるなって」

「大学ぐらいになると、フィジカル能力が、そんなに変わらなくなってくるんですよ、他大学とは、成長期で。高校の時って差が大きい。で、フィジカルが変わらなくなったら、どこで差が出るかっていうと、野球の頭なんですよね。勉強じゃなくて。そこが面白かったです。隙突くとか。この1点は捨てようとか。もう割り切ってしまって、ホームランでもいいから、ど真ん中投げようとか。でも、絶対ここのバッターだけはもう出さないように、特殊な攻め方で、全部インコースで攻めようとか、割り切って徹底するんですよ。 その徹底力は高いんじゃないですかね」

◆入り込み過ぎず、冷静にアウトを探す

「北大入って、アウト探すっていうことの面白さを知りました。ツーアウト満塁とか、絶対絶命のピンチじゃないですか。で、スリーツーとか追い込まれました。そのときに、アウトを探したら意外と落ちてるっていう。一塁ランナーは、自分がヒット打って満足して、もうファーストの守備位置とか気にしないで、ボケっとしてることが多いんですね。そのときに『あ、ここスリーツーになってやばい、やばい』ってバッターに集中しすぎていると、そのランナーが気が抜けてるってことに気づかないんですけど、ランナーが気を抜いた瞬間とかに、ぱっとサイン出したりして、一球ぱって牽制したら、 その大ピンチが終わるっていうことがあるんですよ。その余裕を持って試合をすると、やっぱ俯瞰して見えるようになる」

「で、実際、全日本で柳田くん(現福岡ソフトバンクホークス)を3塁牽制で刺した。そのプレーなんですよ。もう自分がヒット打って、二盗して、三盗して。で、次のワンアウト三塁から、チェンジアップでバッター三振したんです。これでツーアウト三塁。その後、確か、ボール、ボールで、ツーボールです。その次の瞬間に、牽制でアウトっていうプレーとか。アウトを探したりすることを覚えていくと、やっぱり、入り込みすぎずに冷静になれる。これは、結構面白い。面白い。面白くなると、全然スリーボールになっても『ここでアウト取らなくてもいいんだ、要は、チェンジすればいいんでしょう、満塁になってもゲッツー取ればいいんでしょう』って、それは大学で教えてもらいました」

◇Liga Agresivaが育てているもの

北大から室蘭シャークスを経て、2016年札幌藻岩高校へ。
2022年から参加しているLiga Agresivaについても話をきく。

「普段、輝かない子が監督になって輝くとか、 日の目浴びない子が日の目を浴びる試合(取り組み)になってるんですね。そこがひとつの成果。サイン出してみなって、継投も自分たちで考えてみなって。失敗してもオッケー。そして、相手がいいプレーしたら、試合中、敵味方関係なく、ナイスプレーってちゃんと言い合おうと。それは、やっぱり、なんかスポーツマンシップは育ってきますよね。それはほんとにすごくいい成果」

「あとは、横のつながりがすごく育ちます。一緒に反省会をしたりするので。なかなかそういうのを、あえてするってやらないとやらないんですけど、もうするって決めてるので。嫌でもこう、つながりができて。きっとそれは、その後に生きてくんじゃないですかね。5、6年後とかに 大学までやっていたら、つながるとか、大学卒業して、実はビジネス関係につながるとか、そのための価値づけとしてやっています」

トーナメント一辺倒で“負けたら終わり”に対してのバックアップとして、また、横のつながりを生み出してくれる取り組みとして注目していきたい。余談だが、筆者は試合後に行われる振り返りについては、札六でもぜひ、取り入れるべきではないかと考えている。

◇インタビューを終えて

インタビュー中に何度も登場したのが『むつかしい』という言葉。むつかしさの対象は様々であり、むつかしさの種類も同じように様々であろうと推測する。一方、共通していたのは『むつかしい』と口にしながらも、どこかその状況を楽しんでいるかのように聞こえる語り口だ。「わかり切るということは絶対なくて、今もわからない。でも学ぶ面白さを(大学で)知った」

こうして記事にまとめながら、筆者は石山があらゆる『むつかしさ』に等しい距離を保ち、向き合ってきたように感じている(もちろん今も)。そう感じる理由は、石山が投手、捕手、外野手と複数ポジションの経験をしたことや、自らを体づくりの対象と見立てて、取り組んだ北大時代のトレーニングなどの逸話を聞いたことによるものだ。さらには、試合の局所に没入し過ぎず、俯瞰的に見渡すことを北大で学んだ、というくだりが強く心に刺さり、そういった印象を抱かせている。

等しい距離に関連して少し脱線。インタビュー中、何度となく、現れた心地よい等距離感。分け隔てのない感じ。その心地よさは、“柳田くん”“石橋くん”、とかつての対戦相手も教え子にあたる選手も同じ呼称、同じ温度感で発せられる石山の口調から生まれていたように思う。柳田はご存知の通り現役NPBプレーヤー。石橋くん、石橋純樹は2021年札幌藻岩が札幌支部予選決勝へ進出したときに救援登板で快投を見せた投手。現在は北海道教育大学岩見沢校で野球を続けている“札六二部リーガー”だ。

もうひとつ脱線。俯瞰や複眼や没入し過ぎずというキーワードが頭の中を駆け回っている。“東京ドームのマウンドからスタンドを見た”と言うひとことに、時間、空間を自在に俯瞰、往還する石山の思考がくっきりと映し出されているような気がしてならない。そして、石山は、現在指導者として、人、人と人の間を、対象として向き合っているのだと思う。『むつかしいですね』と笑顔を絶やすことなく。

選手時代の“6月の二度の延長14回”について、話を向けると「いやぁ、ただの偶然でしょう」と軽やかに石山はかわした。無理やり物語を探すのは愚かなインタビュアーだけだ。ただ、石山の『延長戦』は今も続いているし、これからも続くのだろうなと感じている。「むつかしさ」をひとつひとつ越えていきながら。

恵庭北戦を振り返り「なんかまだまだ試合していたいなって思っていた」と石山は語ってくれた。この最高に過ぎる多幸感。その願い通り、試合は続いているのだと思う。

さて、北大2010年躍進へのフライバイ、そして、石山智也を入り口として、“北大の秘密”に迫ることはできたのか。これは、それこそ『わからない』。最後に放り出して申し訳ないが。それを見つけるためにも、円山球場へ通い続けることにしよう、そう思った。

高校時代、社会人時代の記述が薄くなっている点については、本稿の主旨を大学時代に焦点を置いたことによるものである。記事では割愛したが、後者については、高いレベルの野球を経験し、見聞できたということ、前者についても、恩師への感謝の想い~『色々と教えてくれていたと思いますが、自分自身が深く考えていなかった』~が語られていたことを申し添えておきたい。

”若すぎて何だか分からなかったことが
リアルに感じてしまうこの頃さ”というアレだ。

※文中敬称略。

文責:鵜殿優一


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