フロマートカの言葉メモ その6

ヨゼフ・ルクル・フロマートカの著作選として『危機の時代の神学』という本が近頃出版された。その著作からの言葉はもうしばらく後にメモとして記されることになる。あと数回分くらいの「フロマートカの言葉メモ」は『危機の時代の神学』以外のフロマートカの著作からの,フロマートカの言葉をメモすることになる。それではこの記事に引き続いて,フロマートカの言葉をメモしていく。

フロマートカ「私たちに永遠とは何であるかは理解できない。理解できるのは唯一、私たちがイエス自身が立っている場、永遠と時間が交差する場に立つ場合だけである」

フロマートカ「永遠の命が始まるのは、イエスがこの世において罪と無力と死の手枷を断ち切り、奴隷にされ、つながれ、追い詰められ、利己主義によって傷つけられ、罪責に潰された人間を解放し、百八十度向きを変えさせて、新しい人生に目覚めさせるときなのである」

フロマートカ「神の言葉に対する最も危険な違反とは、信徒の共同体の中で硬直してしまうこと、さながら死した律法と化してしまうこと、そして律法が上辺のものにとどまってしまうこと、つまり人間の生の表面的な部分だけに手を加え、人間の真の姿が映し出される心には作用しないことである」

フロマートカ「律法主義とは、悔い改めずに熱狂することである。狂信は、自己認識にも自己制御にも欠けた非寛容な熱意のことである」

フロマートカ「信仰とは、神への従順な信頼であり、神の言葉に注意深く耳を傾けることである。それは開かれた心であり、行動するうえでの常なる心構えであり、行動するために必要なものを賭ける覚悟、ときには全てを賭ける覚悟である」

フロマートカ「イエスの自由がしたがってあれほど大胆かつ恐れを知らないのは、完全な愛に導かれていたからである」

フロマートカ「イエス・キリストにより奉仕への召命を受けた人々の活動は、明らかに神の聖なる反射光を受けている。これは目立たず、捉えにくい光だが、信仰の決断力、活動力と勇気を表す光である」

フロマートカ「人間の自由は神の恵みの賜物であり、愛と奉仕への自由である。真の自由とは自分勝手ということではなく、自由が神の永遠かつ憐れみ深き神聖さにおいて限界を持つことを、私たちは神の言葉の光に照らして知っている。しかしまさにだからこそ、その結果として、造られた人間は自由への無条件の責任を負うのである。自由がより高いものであればあるほど、その責任は重大になる」

フロマートカ「人間の本来の本質、つまり人間の本来の使命は、人間と神への正しい関係にある。そこに聖書信仰の原動力がある。この原動力によって、キリスト教は、抽象的な哲学思想とも、人間の生の単なる自然な探究または社会的および歴史的研究とも異なる」

フロマートカ「神は、その裁きと厳しさにおいても、忠実であり続けた。神は、人間が神との友情を反故にしても、友であり続けた。神は、いくら人が絶えず平和を乱し平穏を遠ざけても、平和と平穏の手をさしのべ続けた」

フロマートカ「神は人間の後をついて行く。人間が神の前から逃げて敵意と不信感を抱くときも人間をおいかける」

フロマートカ「イエスは律法を廃止するためにではなく、満たすためにやってきた」

フロマートカ「裁きと呪いとは、神のいない状態を意味する。裁きと呪いは、神が罪人に背を向け、罪人が一人ぼっちになった状況を意味する。これこそ恐怖と絶望の地獄である」

フロマートカ「教会の本質的な課題は、和解の使信と、ナザレのイエスが私たちのために自らの人生と働きによって成し遂げたこと一切を宣べ伝えることである」

フロマートカ「キリストは死んだが生きており、支配しているのである。私たちがナザレのイエスとして知っているキリスト、香油を注がれた者、救世主として」

フロマートカ「私たちは信仰の究極的な事実を想像したり頭で理解したりすることはできるが、空間的に理解することはできない。神が時間と空間において人間に干渉することを、私たちは信仰告白する。というのも、くり返しになるが、神の言動は個々の人間に関わる具体的なものだからである」

フロマートカ「もちろん、私たちの個々の決断はいずれも私たち自身の責任に基づく。しかし大切なのは、他者との関係において、また自己への態度において、正しく、そして安らぎと平静を与える内面的な確信を持って決断することである」

フロマートカ「私たちが言う神の子の自由とは恵みの賜物である。この自由はこの世のいかなる規制によっても保証できない。しかし人間からそれが奪われることもない。というのもこの自由は勝利した人の子のリアリティと結びついているからであり、彼は真の信仰を告白する者を介して己の働きを行うのである」

フロマートカ「大切なのは、真の信仰を告白する者として、普段の暮らしの人間関係において、まずは自分の人生、家族、教会、共同体、つまり人間が集って仕事をするあらゆる場において、どんなに小さな悪の圧力の萌芽をも見逃さないように目を覚ましていること、それに備えていることである」

フロマートカ「悪魔の狡猾さは、礼儀正しさと道徳性、正義と敬虔のマントをはおって目立たずに現れ、まさか悪魔に襲われるとは思わないようなごく日常的な務めにおいて私たちを驚かすところにある」

フロマートカ「そう、喜びは真のキリスト教会の信徒と信仰を告白する者の本質的な特徴である。それは福音そのものによって与えられている」


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