レートリケーとディアレクティケー

このカタカナ用語二つをみて,なんとなくそれに近しい言葉を聞いたことがあるという方は,きっと西洋哲学についてその哲学の歴史を学んだことがあったり,表現者たらんとするもったことがあったりする方なのだろう。というのも,この二つのカタカナ用語は少なくとも古典ギリシア語をある程度齧ったことのある人であったり,修辞や弁論について学ぶ必要のある立場にある人であったりしない限り,なかなかである機会のない言葉だからだ。

(以下の記述は,この記事の執筆者が今年度の大学院の授業で受けている,ラテン語文献演習(=購読)の講師が配布した資料に基づくものとなる。そしてこの記事は,ディアレクティケーの仕方ではなくレートリケーの仕方で書かれることになる。)

1 弁論と弁証

レートリケーおよびディアレクティケー。この二つは古典ギリシア語をカタカナにしたものであって,それぞれをローマ字表記にすれば,rhetorikeとdialectikeとなる。それぞれに対してとりあえずの日本語を与えておけば「弁論術」と「弁証術」となる(ここで即座に補足する。術という訳語はテクネーという古典ギリシア語に対するものであり,そのローマ字表記はtekhneあるいはtechneとなる。したがって正しくは,tekhne rhetorikeが「弁論術」でありtekhne dialectikeが「弁証術」となるのである。ちなみに,弁論術はラテン語ではars rhetoricaやars dicendiと表記される)。弁証術は別の訳語としては問答法や弁証法,対話術というものがある。

弁論家を意味するレートル(ローマ字表記はrhetorであり,時代によって差こそあれ,弁論家と政治家はほとんど同じ存在であった)が聴衆に対して公の場で説得する技術,のことがとりあえず弁論術といわれるものであると暫定的に述べておく(あるいは最大公約数的見解であるといっておく)。一方の弁証術は問いと答えを発する人がそれぞれいて,お互いがお互いに問答を繰り返していくことで,真を求めていく技術のことを指すと述べておく。ちなみに公の場というのは,例えば議会や裁判のことが,古代ギリシアや古代ローマにおいて想定される。公の場で聴衆を説得するということは最終的に「多数決原理」に帰結する。

プラトンによれば「弁論術とは,そもそも技術 techneの名に値せず,せいぜい料理の「こつ」のようなものにすぎない」(『ゴルギアス』)ということで,弁論術は蔑みの対象となっているのである。一方でアリストテレスによれば「弁論術 rhetorikeは対話術 dialectikeと呼応する関係にある」(『弁論術』)ということで,少なくとも弁論術への蔑みを感じることはない表現を述べている。加えてアリストテレスは「対話術における推論」と「弁論術における推論」とについてそれぞれ「三段論法」と「想到法(説得推論)」という用語を与えている。前者の推論は,真であると承認されたある命題をもとに,ひとつの必然的な結論を導く推論であるとされ,後者の推論は,多くの場合に真であるようなある命題をもとに,ひとつの蓋然的な結論を導く推論であるとされる。

2 キケロの『発想論』

キケロ『発想論』(De inventione)によれば,弁論には三つの種類,五つの操作(手順)そして四つの部分があるとされる。(キケロの作品はギリシア語ではなくラテン語で書かれているものが多い。というのもキケロはカエサルとほぼ同時代の人間であり,古典ラテン語の標準的なスタイルはキケロにあり,といわれるほどの人物であるからだ。)それぞれについて,簡単に箇条書きのように記していく。

2−1 弁論の三類別

訴訟弁論(genus iudiciale)
審議弁論(genus deliberativum)
演示弁論(genus demonstrativum)

2−2 弁論の五操作

発想(inventio)
構成(dispositio)
修辞(elocutio)
記憶(memoria)
発表(actio)

2−3 弁論の四部分

諸言(exordium)
叙述(narratio)
立証(argumentatio)
結語(peroratio)

そして,例えば裁判における「争点」の分類についてもキケロは述べている。争点(stasis)は四つに分けられるとのことらしく,推定の(conjecturalis)争点,定義の(definitivus)争点,性質の(qualitatis)争点および変更の(translationis)争点の四つである。

この四つについて,例を用いて区別を概説する。例えばとある人Aがとある人Bを殺めたということに関する裁判は,さまざまな論点で争われる(ことが多い)。AがBを殺めたのか否かということを争うのが推定の争点である。事実認識に関する問題を扱うのが推定の争点であると言えるだろう。次に,AがBを殺めたという事実は認めるが,それが殺人罪に値するかどうか(つまりAに責任があるのかないのか)を争うのが定義の争点である。人を殺めるからといって必ず殺人罪に問われるということはない。ひょっとしたら過失致死罪になったり別の罪になったりするかもしれないからだ。次に,AがBを殺して殺人罪に値するというところまでは認めたとしよう。このAは例えば正当防衛的に人を殺したのか,そうではないのかということを争うのが性質の争点である。刑罰の質や量が争点の主なところを占めることになるのが,性質の争点であるといえよう。最後に残るは変更の争点である。これは,そもそもこの裁判で争うべき案件でない,と主張するいわばちゃぶ台返しのようなところを争うものである。相手の土俵に乗った時点で負けという勝負は往々にしてあり,そういう場面においては,そもそもその土俵を崩すことは一つの当然な行為なのである。

3 論文の書き方と発想論?!

inventioつまり発想とはギリシアやローマにおいては,何かを自分の力で独創的に見つけることを指すのではなく,すでに先人たちが蓄えてきた様々なものから,論の組み立て方を発見することを指す。現代的に言えば,型破りをするための前提となる型を発見することが,inventioということになるだろう。

論文を書けなくて困っている人たちにとっては,この記事の執筆者もその一人であるのだが,とても有意義なラテン語購読の授業に,今年度のラテン語購読(キケロ『発想論』)はなるに違いない。数十年以内あるいは数百年以内に書かれたものを読むくらいならば,いっそのこと数千年くらい前のものまで飛んでしまうというのも,一興であると思う。(どうでもいい話であるが,この記事の執筆者はドイツ語やフランス語を扱う前に,これらが生まれてきたルーツの言語たるラテン語,そしてギリシア語を扱えば,ドイツ語やフランス語を学ぶのにも苦労しないだろう,という考えを持っていて,その考えを実行している。)

守って破って離れる,ということが求められるような世界において,守るに値する(ここでは保存するという意味もあるのだが,破るに値する可能性があるような前提となるものという意味で理解していただきたい)ことは原典にして原点のことである。大体において,時代の荒波や場所の都合に揉まれても生き残っているものは,守るに値するものだ。



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