書きたいものがないとき

書きたいものがないとき,書く人はなにをしているのか。人間をしていることはおそらくそうなのであるが,書く人としての人間は死んでいることになる。書くためには準備が必要であることは書く人にとって必ずしも当たり前のことではなく,むしろ準備を不要とすることを当然とする態度や,準備なしで書くことを面白がる態度を,書く人はもっていることもあるのだ。

一つのことを書くためには,その百倍程度のことを読んでいたり知っていたり聞いていたりする必要があるという話をしばしば聞くことがある。人は1日24時間のうちでどれだけの語数の言葉を思い描くのだろう。思い描いたことを悉く記すにはどうにも人間の肉体器官は発達していない。1日を全くの無言(ここでいう無言は外に聞こえたり見えたりする形のものがないという意味である)で過ごすことは,あるいは可能であるかもしれないが,1日を全くの言語活動なし(ここでは頭や心に思い描く言語さえないという意味である)で過ごすことは,凡そ不可能であるに違いない。

書きたいものがないとき,何かを書くということをすることは可能かどうか。不可能である。なぜなら書きたいものがないと宣言しているからだ。可能である。なぜなら書きたいものがないということを書くことができるからだ。可能である。なぜなら書きたいものがないということは書くべきものがないことを意味しないからだ。全ての発想は既存のものの発見である…なんと言ってしまうと,いわゆる天才の所業はどうなってしまうのか。あるいは新規のものがなくなってしまうのではないか。

新規のものを新規のものという古典的なものの仕方で理解する。そういう理解の仕方をすれば,凡そ新規のものは古いものとなる。新しいは古いのである。新しいものであれなんであれ,なにかを新しいと思うことそれ自体は,人間にとって馴染み深い所業であり,古典的な所業である。新しいということは新しいという形容詞をつける時点で,新しくなくなってしまう。何か別の表現を発想する必要がある。

全てにおいて一貫したものを書くことはやめた方がいい。全てにおいて一貫したことを話すことはやめた方がいい。そんなことはしようとしてもできる所業でないし,仮にできたとしたらそれは誰にも理解されないからである。書くことや話すことそれ自体を悪しきものとして捉える自由を尊重するが,それらのことそれ自体を辞めることは,総体としての人間にはできないようだ。為政者のなかであるいは哲学者のなかで,書かれたものの価値を貶めたり,実際に書かれたものも抹消を試みたりするものがいる。だが,そういう行為をしたという事実が伝聞の形であれ伝わってしまっている時点で,彼らは失敗しているのだ。

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