全ては疑いうるが全てを疑うこと能わず

なぜなら全てを疑うことができるということを疑っていてば,全てを疑うと言うことそれ自体を実行できないからである。疑いは確かなことに基づくのである。そうでなければ疑いという名前をつけるに値しない。

ダウトかどうかを疑っている人間は(ここでは疑っているのでなく悩んでいると言った方が正確だが)ダウトと宣言することはできない。あるいはそう言う宣言をすることに躊躇を覚えるはずである。人は,確かに,いってしまってからその理屈を後追いすると言う性質を持っているが(この性質を持っていない人に出会うことは,きっと不可能であろう。そう言う性質を持っていない人がいれば,その人は言葉を外に向けて発しない人であり,そのような人と会うのは,少なくともそのような人を発見することは,困難であるからだ)ダウト!と宣言してしまってからその理屈を後押し(あるいは後追い)するときに,もはやその理屈を探している自分やその理屈の妥当性を考えている自分を疑うことはできない。疑っていては先に進まないのである。

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たまにみかけるのが妄想に現実をぶつけようとする人だ。妄想を抱いていると思われる人に,現実をぶつけてその妄想を解こうとする人がいると言う意味である。だがこのアプローチは,まず妄想を抱いていると思われる人に,あなたは妄想を抱いていますよと言う現実を伝えることを必要とする。その点で,妄想に現実をぶつけると言いながら,じつは現実に対して別の現実をぶつけていることにすぎなくなる。妄想に対して妄想をぶつけると言うのは,現実に対して現実をぶつけることよりも,あるいは難しいのかもしれない。

AにはAを!BにはBを!

教えると言うことは教わると言うことだ。教える立場にいると思われう人は,権力的に低い位置にいるのであり,少なくとも教えられる立場にいると思われる人よりも権力的に低い位置にいるのである。伝わったかどうかを試す方法がないからである。伝わった気がすると言う雰囲気を共有した気にさせることができる程度であり,教えると言うのは教わる気概のある人あるいは教わると言う気概を健全にも?もっていないひとのところまで旅立たないとといけないのである。旅人の神学よ!

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わたしにとってはこれは絶対であると言う事柄は存在する。そして絶対的な事柄が存在すると言うことを疑う人が絶対的に存在することを,私は知っているし,絶対的な事柄が存在すると言うことを共有していても,その事柄の中身まで同じである保証がないということも,私は知っている。寛容というのは嫌な気持ちを持ったまま(ここがポイントであるのだが,寛容という単語で気持ちよくなっている人がいれば,それは寛容でなくて相手を否定することに気持ちよくなっているだけである)相手のことを認めることだ。認めるというのが上から目線であるというのであれば,寛容とは嫌な気持ちを持ったまま相手と接するということだ。まちがっても嫌な気持ちをゼロにした寛容は存在しない。そういう気持ちがゼロになればそれは,寛容とは別の出来事が発生していることになる。

Well, we all fall in love
まあ,誰もが恋に落ちるもの
But we disregard the danger
けど,わたしたちはその危険性を無視するものだ
Though we share so many secrets
たくさんの秘密を私たちは共有すれど
There are some we never tell
決して明かさない秘密だってあるものさ
Why were you so surprised
どうしてあんたはそんなに驚くのかい
That you never saw the stranger?
あなたが見知らぬ人にあったことがないという理由で?
Did you ever let your lover
あなたはこれまでにあなたの恋人に
See the stranger in yourself?
自分の中にいる見知らぬ人を合わせなかったのかい?

(Billy JoelのThe Strangerより)

「神! われわれは,この言葉によって何を言っているのかしらない。信じる者は,われわれがそれを知らないということを知っている。」(カール・バルト『ローマ書講解 上』平凡社ライブラリー,邦訳94頁)究極的なものの前には,究極以前のものなど,木っ端微塵に砕かれつくされることだってあるものだ。信仰,希望,愛という究極的なものの前に,国家,貨幣,民族という究極以前のものは,太刀打ちできない。国家,貨幣,民族が信仰,希望,愛に打ち勝っているように見えるのならば,それは負けているからだ。負けているものにしか勝ちはみえない。勝ちが見えているということは負けているということだ。究極以前のものを大切にすることは,究極的なものを大切にすることと相反しない。しかしながら,究極的なものが究極以前のものよりも蔑ろにされている時,究極的なものの叛逆が始まる。されどその叛逆は向こうからやってくるものであって,こちらから向かっていくものではありえない。このありえなさに向き合わないものは,向き合えないのが人間なのであるが,向き合おうとしないものは,打ち砕かれる。


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