INTERTEETCAELUM

inter te et caelum.

ラテン語で「空ときみの間に」という台詞を訳してみるとこんな感じになるだろうか。interは対格支配の前置詞であり,teは「あなた」を表す単語の単数対格,etは英語でいうところのand,そしてcaelumは「空」を表す単語の単数対格である。

>空ときみとの間には,今日も冷たい雨が降る。きみが笑ってくれるなら,僕は悪にでもなる。空ときみとの間には,今日も冷たい雨が降る。きみが笑ってくれるなら,僕は悪にでもなる。<

1 この世すべての悪

あなたは,世界を殺してでもあなたの愛する人を守りますか? 
それとも
あなたは,あなたの愛する人を殺してでも世界を守りますか?

人間の生きる世界はどうしたって悪である。いや,善もあるのだが善をいくら広げたところで,いくら深めたところで悪は消えないのである。悪を善の欠如であるなどと生半可に捉えているような若造に用はない。だが,この世は所詮悪なのだからこの世はどうでも良い代物であって自暴自棄に生きて良いのだ,と考えるような輩にはもっと用はない。あなたの「ある」を他の人の「ある」と同化せしめることなかれ。

>きみが荒んだ瞳で,強がるのがとても痛い。憎むことでいつまでもあいつに縛られないで。ここにいるよ。愛はまだ。ここにいるよ。俯かないで!<

2 希望と信仰

フロマートカ「希望は双子の姉妹として信仰に付き添うのであり,それが希望の本質であり,意味なのである。この双子の姉妹は,おたがいがその一部である。一方は他方なしには生きられない。一方が死ぬところで他方も死ぬのである」

フロマートカ「ある階級なき社会においてさえ,罪人は存在するだろう。階級なき社会は,歴史の終りではない。人間の罪はあらゆる政治的・社会的なシステムを境越するものであり,その際そのシステムがいかに完全でありうるか,ということは何の役割も果たさないのである」

フロマートカ「歴史はキリスト教徒のためにのみ存するのでもなければ,共産主義者のためだけに存するのでもない」

>孤独な人に漬け込むようなことは言えなくて。きみを泣かせたあいつの正体を僕は知ってた。引き止めた僕をきみは振り払った遠い夜。<

3 わかったつもりという危険

eureka!(わかった!)と思った瞬間ほどに危ういものはない。それはあなたがeureka!(見つけた!)したいからそうなっただけの可能性があるからだ。進路は二重螺旋のように。一日一歩。3日で散歩(三歩のことです。)。三歩進んで二歩下がる。進んでいる間は,止まっていないということだ。それは万物流転則(別名パンタレイ)に即した動きであるといえる。

ちなみにeureka!という単語の説明であるが,これは古典ギリシア語であり「ヘウリスコー(heurisko(ギリシア語のラテン語表記))」という「見つける」意味の動詞の直説法一人称単数完了能動態である。そして,この言葉は古代ギリシャの数学者たるアルキメデスに帰することができる言葉である。意味としては「わかった!」とか「見つけた!」というものである。(「見る」=「分かる,知る」という発想は,少なくとも古典ギリシア語や古典ラテン語において言葉遣いから見てとることができる。)

>きみの心がわかると容易く誓える男に,なぜ女はついてゆくのだろう。そして,泣くのだろう。<

4 Oculi pictura tenentur, aures cantibus.

これは古代ローマの有名人物の一人であるキケロの言葉とされる。意味はこうである。

「目は絵によって捕らえられ、耳は歌によって捕らえられる。」

念の為に,文法解析(英語ていうところの構文把握に近い作業)を与えておこう。oculiという単語は「目」を意味するoculusという単語(男性名詞)の複数主格である。picturaという単語は「絵」を意味するpicturaという単語(女性名詞)の単数奪格であり,ここでの奪格は「〜によって」と訳す手段の奪格ととると良い。tenenturという単語は「持つ」とか「つかむ」とか「占める」とかを意味するteneoという単語(動詞)の直説法三人称単数現在受身形である。従って,Oculi pictura tenenturは「目たちは絵によって占められる」という直訳を与えることのできるかたまりである。
auresという単語は「耳」を意味するaurisという単語(女性名詞)の,ここでは複数主格である。というのもOculiとauresとが,そしてpicturaと後で述べるcantibusとが対比されているからである。(auresと活用するのは複数主格の他に複数対格や複数奪格があるが,ここではそれらは共に不適である。)cantibusという単語は「歌」を意味するcantusの,ここでは複数奪格であり,ここでの奪格はやはり「〜によって」と訳す手段の奪格ととると良い。(cantibusと活用するのは複数奪格のほかに複数与格があるが,ここではそれは適さない。)従って,aures cantibusは「耳たちは歌たちによって」という直訳を与えることのできる形である。なおaures cantibus のかたまりにはtenenturという単語が省略されていることは言うまでもないであろう。(同じ形の反復は基本的に省略可能であるからだ。)

>きみが涙の時には,僕はポプラの枝になる〜。孤独な人に漬け込むようなことは,言えなくて。<

5 空ときみとの間には

キリスト教においては死を体験した人間は,キリストの再臨が果たされるまで,魂も肉体も共に滅ぶ状態が維持される。勘違いしてはならない。魂だけがどこかに揺蕩っているなどという発想はキリスト教ではないのである。そんな発想はどこぞの空想的ギリシア思想(の一部)に委ねておけば良いものだ。

滅ぶから生きるのである。生きるから滅ぶのではない。

>空ときみとの間には,今日も冷たい雨が降る。きみが笑ってくれるなら,僕は悪にでもなる。空ときみとの間には,今日も冷たい雨が降る。きみが笑ってくれるなら,僕は悪にでもなる。<


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