フロマートカの言葉メモ その8

まだまだ続くよ,フロマートカの言葉メモ。この記事に続くものとなるがゆえ,本記事を読み終わった後でも途中でも前でも,追加で呼んでいただけるとありがたい。ひょっとしたら,今までの言葉メモのなかですでに紹介した言葉も含まれているかもしれないが,気にしないでいただきたく思う。

フロマートカ「信徒の生活は、目に見えない神の言葉と、現臨するイエス・キリストの目に見えない手によって作られている。その主な印は、神の憐れみのあらゆる証拠を感謝を持って受けとめることである」

フロマートカ「キリスト教徒の生活は、宗教の訓練ではない。キリスト教徒の生活とは、偽の言葉や表面的な敬虔さによって神の言葉の神聖さが汚されることを恐れる内面的真剣さの中で導かれる生活である」

フロマートカ「内面の真剣さは地の塩である。人間社会の塩であり、もちろん人間関係における塩である」

フロマートカ「真理のないところに自由もない。嘘をつき欺く人、自分の中にないものをあるように装う偽善者は、己の嘘の奴隷となり、遅かれ早かれ生に対する自由な視線を失う」

フロマートカ「喜びは賜物であり、受け取ることしかできず、要求することはできない」

フロマートカ「悔い改めとはある意味で、真理と愛なくして本当の生活は成り立たない、本当の自由はないと告白することである。悔い改めている人間は、内面の解放の道を歩んでいる。自分の罪を認め、告白する人は、自由になる。悔い改めないことが、より厳しい隷属への下降を意味するように」

フロマートカ「赦しの中で生き、イエスの義を自分の義として受け取る者は、信仰心が育つように、また愛が育つように、そして隣人が必要としていることへの奉仕を増やそうと願う」

フロマートカ「福音は,人間がいかなる宗教社会,哲学思想,政治形態,文化レベルの中で暮らしていようと関係なく,その人を追い求める道である。福音は万人に当てはまる。世界中のみなに関係する。しかしまた福音は,人間のそれぞれの個性,特性,生活条件,病気,罪,そしてまた喜び,希望に向かう姿勢でもある」

フロマートカ「私たちは,心配事を抱え罪の中で溺れている人を,道徳的な規定や法に照らして検閲するかのように,叩きのめしてはならない。背負い切れない重荷を課してはならず,溺れそうになっている人にさらに苦しみを与えるようなことをしてはならない」

フロマートカ「私たちは,最も困難な戦いは信仰と宣教と奉仕の愛のレベルで行われることを知っているが,私たちの命の主はまた外的な諸関係や秩序の主でもあり,この面においても私たちは主に責任を負っていることを知っている」

フロマートカ「私たちの戦いが効果をあげて勝利するのは,私たちが依存してきたものが全て失われ,そして傍らに忠実なイエス・キリストのみを目にしたとき,そして貧しさの中にありながら尊厳と栄光の定めの中にある方を目にしたときである。教会はこの正しいレベルを忘れてしまったため,不毛になり,明らかな視界を失い,偽りの武器に手を出した。そこで使徒とは違って,教会は目標のはっきりしない走り方をし,空を打つような拳闘をするのである(コリントの信徒への手紙一9章26節を参照)」

フロマートカ「希望は信仰の不足を補うのではない。希望は信仰と共に生まれ、信仰が成長すれば希望も成長し、信仰の力が強くなれば希望も強くなる」

フロマートカ「私たちは、神の決定的な行為はすでに果たされたということを知っている。信じて解放されるために必要なものは、すでにすべてこの世に与えられている」

フロマートカ「信仰は常に眼差しを前に向けている。自分の限界を知っているが、それでもその限界の先を示している」

フロマートカ「信仰と希望は結びついていて、どちらか無くしては生きられないものである。一方が死ねばもう一方も死ぬ。一方が成長して勝利すれば、もう一方も成長して勝利する」

フロマートカ「キリストの到来を期待することは、人間から安っぽい自己確信や自己義認を取り除き、教会に己の秩序や礼拝やサクラメントに依り頼まないよう、また、痛みを伴うけれども同時に健全な本物の自己批判の中で常に生きるよう、警告することなのである」

フロマートカ「キリストの到来を待つということは、すべての問題を開かれたままにしておくということである」

フロマートカ「己の基準や法に基づいて裁く人間は、人の子の裁きよりも、厳しく無慈悲である。人の子は、裁くだけでなく私たちと共に被告の席に座り、私たちの罪の重荷を自ら背負う」

フロマートカ「イエスの憐れみと人間との連帯は、人間が抱きうる善良さや寛大さとはまったく似て非なるものである。まして彼はえこひいきなどしない」

フロマートカ「イエスは真理と正義に基づいて裁く。もちろん愛に満ちた真理において、そして解放を望む正義において、である」

フロマートカ「人間は全身神の手によって造られたもので、人間に神性なものは何もないのである。ここでもこの言葉が当てはまる。「神は神である、被造物は被造物である、つまり人間は人間である。」」

フロマートカ「聖書、とくに新約における人間の概念の意義とは、人間を、神との関係、神にイニシアチブがあり、神が恵みにおいて人間と交流を望んでいるという関係において見ることである」

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