日本の稀代の自由人たる柄谷行人 その7

柄谷行人の著作を取り上げていく記事を書くのは,だいぶ久しぶりになってしまったきらいがある。そして,この記事以来の記事となってしまう。けれども,書いていくことにする。取り上げる著作は,柄谷行人『力と交換様式』(岩波書店,2022年)である。
(柄谷行人は1941年生まれであると,『力と交換様式』には書いてあった。年齢で言えば81歳で書いた作品ということになる。この記事の執筆者であるところの私から見れば,あくまで年齢的な話であるが,祖父にあたるくらいの世代格差:ジェネレーションギャップがある。そんな私が柄谷行人について考え,書き続けているというのは,私には理解不能な霊的な力が,あるいは神の思し召しが働いているのかもしれない。)

1 目次

まずはこの著作の目次を,記してみる。

序論
1 上部構造の観念的な「力」
2 「力」に敗れたマルクス主義
3 交換様式から来る「力」
4 資本制経済の中の「精神」の活動
5 交換の「力」とフェティシュ(物神)
6 交換の起源
7 フェティシズムと偶像崇拝
8 エンゲルスの『ドイツ農民戦争』と社会主義の科学
9 交換と「交通」

第一部:交換から来る「力」
予備的考察:力とは何か
1 見知らぬ者同士の交換
2 自然の遠隔的な「力」
3 「見えざる手」と進化論
4 貨幣の「力」
5 定住化と交換の問題
6 共同体の拡大と交換様式
第一章:交換様式Aと力
1 贈与の力
2 モースの視点
3 原始的な遊動民と定住化
4 トーテミズムと交換
5 後期フロイト
6 共同体の超自我
7 反復強迫的な「力」
第二章:交換様式Bと力
1 ホッブズの契約
2 商品たちの「社会契約」
3 首長制社会
4 原始社会の段階と交換様式
5 首長が王となる時
6 カリスマ的支配
7 歴史と「自然実験」
8 臣民と官僚制
9 国家をもたらす「力」
第三章:交換様式Cと力
1 貨幣と国家
2 遠隔地交易
3 帝国の「力」
4 帝国の法
5 世界帝国と超越的な神
6 交換様式と神観念
7 世界宗教と普遍宗教
第四章:交換様式Dと力
1 原遊動性への回帰
2 普遍宗教的な運動と預言者
3 ゾロアスター
4 モーセ
5 イスラエルの預言者
6 イエス
7 ソクラテス
8 中国の諸子百家
9 ブッダ

第二部:世界史の構造と「力」
第一章:ギリシア・ローマ(古典古代)
1 ギリシア芸術の模範性と回帰する「力」
2 亜周辺のギリシアの”未開性”
3 ギリシアの「氏族社会の民主主義」
4 キリスト教の国教化と『神の国』
5 悲惨な歴史過程の末の到来
第二章:封建制(ゲルマン)
1 アジア的あるいは古典古代的な共同体との違い
2 ゲルマン社会の特性
3 ゲルマン社会における都市
4 修道院
5 宗教改革
第三章:絶対王政と宗教改革
1 王と都市(ブルジョア)との結託
2 「王の奇蹟」
3 臣民としての共同性
4 近代資本主義(産業資本主義)
5 常備軍と産業労働者の規律
6 国家の監視
7 新都市

第三部:資本主義の科学
第一章:経済学批判
1 貨幣や資本という「幽霊」
2 一八四八年革命と皇帝の下での「社会主義」
3 「物神の現象学」としての『資本論』
4 交換に由来する「力」
5 マルクスとホッブズ
6 株式会社
7 イギリスのヘゲモニー
第二章:資本=ネーション=国家
1 容易に死滅しない国家
2 カントの「平和連合」
3 自然の「隠微な計画」
4 帝国主義戦争とネーション
5 交換様式から見た資本主義
6 資本の自己増殖を可能にする絶え間ない「差異化」
7 新古典派の「科学」
第三章:資本主義の終わり
1 革命運動とマルクス主義
2 十月革命の帰結
3 二〇世紀の世界資本主義
4 新自由主義という名の「新帝国主義」
5 ポスト資本主義,ポスト社会主義論
6 晩年のマルクスとエンゲルスの仕事
7 環境危機と「交通」における「力」

第四部:社会主義の科学
第一章:社会主義の科学1
1 資本主義の科学
2 『ユートピア』とプロレタリアの問題
3 羊と貨幣
4 共同所有
5 「科学的社会主義」の終わり
6 ザスーリチへの返事
7 「一国」革命
8 氏族社会における諸個人の自由
9 私的所有と個人的所有
第二章:社会主義の科学2
1 エンゲルス再考
2 一八四八年革命挫折後の『ドイツ農民戦争』
3 一五二五年の「階級闘争」
4 原始キリスト教に関する研究
5 共産主義を交換様式から見る
第三章:社会主義の科学3
1 物神化と物象化
2 カウツキーとブロッホ
3 ブロッホの「希望」とキルケゴールの「反復」
4 ベンヤミンの「神的暴力」
5 無意識と未意識
6 アルカイックな社会の”高次元での回復”
7 交換様式Dという問題
8 交換様式Aに依拠する対抗運動の限界
9 危機におけるDの到来


あとがき

柄谷行人『力と交換様式』の目次は以上である。

2 内容紹介:序論に着目して

以下では,『力と交換様式』の序論に注目して,この著作を紹介してみる。

2−1 上部構造の観念的な「力」


柄谷はこの著作において以下のことを「再考」すると述べている。すなわち柄谷行人『世界史の構造』(岩波書店,2010年)にて提唱された「「生産様式から交換様式へ」の移行」(『力と交換様式』1頁,以下では『力と交換様式』を本書と略記する)について再考すると言っている。この著作の目次においてすでに,交換様式という言葉が登場するので,この段階で交換様式(具体的には交換様式Aから交換様式D)を紹介すると,以下になる(本書1-2頁):
A=互酬(贈与と返礼)
B=服従と保護(略取と再分配)
C=商品交換(貨幣と商品)
D=Aの高次元での回復
まだこの段階では,柄谷の著作に今まで全く触れてこなかった人にとっては交換様式の中身を考えることをは勿論,なぜ交換様式なるものを考えることが必要なのかを推察することは難しいと思われる。そこでまずは,交換様式なるものを考える必要性を柄谷に語らせてみよう。
柄谷によれば,社会構成体の歴史が生産様式によって決定されているとする考え方への批判が集中して為されているおかげで,その歴史が経済的ベースによって決定されているということそれ自体が否定されてしまうことへの「危機」があるということだ。すなわち「経済的ベースを生産様式(生産力と生産関係)に見出すマルクス主義の見方ではうまく説明できないことが多かったため,それがさまざまな形で批判され,最終的に,経済的ベースという考えそのものが否定されるにいたった」(本書2頁)ということだ。さまざまな形での批判を行なった重要人物として,柄谷はマックス・ヴェーバー,エミール・デュルケーム,そしてジークムント・フロイトを挙げている。彼らはそれぞれの文脈において「経済的下部構造だけでなく,それから相対的に自立した上部構造の次元を探究することが不可欠だと考えた」(本書4頁)人物であると柄谷は見ている。しかし柄谷に言わせれば,彼ら(ヴェーバー,デュルケーム,フロイト)は次の点を見落としている。

「彼らは,上部構造の観念的な「力」が,経済的下部構造,ただし,生産様式ではなく交換様式から来ることを見なかったのである。そして,マルクスがそれを『資本論』で見出したことを。」(本書4頁)

2−2 「力」に敗れたマルクス主義

柄谷は,マルクス主義に端を発するロシア革命から帰結すると考えられるスターリン主義について,政治的上部構造への重視を促すきっかけを与えたものとして理解している(本書5-6頁)。その上で政治的上部構造への重視を訴えた先人として,アントニオ・グラムシ,フランクフルト学派,丸山眞男,吉本隆明,ルイ・アルチュセールを挙げている(本書6-8頁)。だが,彼らの以上のような理論なり思想は柄谷に言わせると,マルクス主義への無関心を誘発するほかないものとして扱われ,次のような位置付けを与えられている。

「以上のような理論は,政治的・イデオロギー的上部構造が経済的ベース(生産力と生産関係)によって規定されるという史的唯物論の見方を擁護するために考えられた。しかし,それは,国家・ネーション・宗教など「政治的・観念的上部構造」に存する「力」がいかにして生じるのかを明らかにするものではなかった。」(本書8頁)

この柄谷の認識を敷衍すると次になると思われる。すなわち,ヴェーバー,デュルケーム,フロイトはマルクス主義そのものへの批判は行なったがマルクス『資本論』の洞察それ自体の要諦をつかめず,グラムシ,フランクフルト学派,丸山眞男,吉本隆明,アルチュセールはマルクス主義を擁護しようとして,マルクス『資本論』の洞察それ自体の要諦を逃してしまっている,ということになるだろう。

2−3 交換様式から来る「力」

柄谷によればマルクスは「資本制経済の形成を,生産ではなく交換に見出そうとした。いいかえれば,彼はそのとき生産様式でなく,交換様式に注目し,そこに商品交換から生じる物神的な「力」を見出したのである」(本書8-9頁)とされる。そして,マルクス『経済学批判』における序言に書いてある,「導きの糸」としてのいわゆる史的唯物論は,マルクス自身の考えではないことが紹介される(本書10頁)。ではマルクスの「導きの糸」は誰がつくったものなのか。
その「導きの糸」をマルクスに与えた人物として柄谷は,エンゲルスとモーゼス・ヘスを挙げる。まずエンゲルスについて,柄谷は事実に反する記述をエンゲルスがしていることを次のように指摘する。すなわち

「エンゲルスはのちにこう述べた。《これら二つの偉大な発見,すなわち唯物史観と,剰余価値による資本主義的生産の秘密の暴露とは,マルクスのおかげでわれわれにあたえられたものである》(『空想から科学への社会主義の発展』一八八〇年,『全集』第一九巻)。いうまでもなく,これらは事実に反する。剰余価値については,リカード派左派が先行していたし,唯物史観(史的唯物論)については,むしろエンゲルス自身の”偉大な発見”であったからだ。」(本書11頁)

次にヘスについて,柄谷は以下のような指摘を行なっている。すなわち「ヘスは,生産のみならず,交通(Verkehr)を重視した」(本書11頁)人物であり,「人間と自然の間の相互的関係,いいかえれば,物質的代謝(メタボリズム)」(本書12頁)をヘスが強調したことを指摘した。そしてマルクスとエンゲルスが『ドイツ・イデオロギー』のある部分において「生産諸力と交通形態」という言葉を用いていることを前提に「交通関係は,交易,生産関係だけでなく,家族,国家,戦争,自然環境をもふくむ。このような見方をもたらしたのが,モーゼス・ヘスである。その意味で,資本や国家を「交換」から考える緒,すなわち,「導きの糸」をもたらしたのはヘスだといってよい」(本書12-13頁)と柄谷は指摘している。
マルクスがエンゲルス並びにヘスの影響を受けて「導きの糸」を記したことを指摘した柄谷は,しかし,『資本論』におけるマルクスの見方として特に重要なものは「交通」一般ではないという(本書13頁)。ではマルクスの『資本論』における見方の特に重要なものは柄谷によればなんなのか。それは,マルクスが「人間と人間の間の「交換」を注視したこと」(本書13頁)である。

2−4 資本制経済の中の「精神」の活動

マルクスが『資本論』第一巻の第二版あとがきにおいて,自らがヘーゲルの弟子であることを次のように宣言したことを,柄谷は指摘する。まずマルクスの言葉を引用する。

「私は,自分があの偉大な思想家の弟子であるとおおっぴらに認め,しかも価値論に関する章のあちこちでヘーゲル特有の表現法におもねることさえした。弁証法がヘーゲルの手中で神秘化されたとしても,このことによって,弁証法の一般的な運動形態を最初に包括的または意識的に述べたのが彼であったということは,いささかも妨げられるものではない。弁証法は,ヘーゲルのばあい,頭で立っている。神秘的なヴェールのなかに合理的な核心を発見するには,それを,ひっくりかえさねばならない。」(『資本論』鈴木鴻一郎ほか訳,「世界の名著」43,中央公論社,一九七三年)

次に柄谷はマルクスのこの発言についていくつか指摘を残している。まずマルクスは『資本論』において「ヘーゲル『論理学』の叙述に忠実に従った。それは「価値論に関する章のあちこち」だけではない。『資本論』の全体系においてそうなのだ。マルクスがそうしたのは,資本制経済の中に一種の「精神」の活動を見いだしたからである」(本書14頁)と述べる。次に,ヘーゲルにマルクスにおもねったからといって,マルクスがヘーゲル哲学に戻ったことを意味しないことを次のように指摘する。すなわち「ヘーゲル哲学では,精神(霊)は高邁なものであり,自然的・直接的な形態から発展して自らを実現するにいたると見なされているのだが,『資本論』で描かれるのは,物に憑いた得体の知れない霊が,産業資本として全社会を牛耳るにいたる過程である。その意味では,『資本論』はヘーゲル哲学を「ひっくりかえす」ものだ」(本書15頁)と指摘する。
このマルクス『資本論』におけるいわばヘーゲル依存性について,柄谷は精神(霊)という単語に注意を促しつつ次のように述べる。

「マルクスはここで,観念的な力をたんに斥けたのではない。(中略)それがどこからいかにして来るのかを唯物論的に明らかにしようとしたのだ。(中略)それは,事態を経済的・物質的な次元から説明することではない。経済的と見なされる事態の根源に,いわば霊的な力が働いているのを見ることだ。」(本書15-16頁)

2−5 交換の「力」とフェティシュ(物神)

柄谷がヘーゲルに依拠して述べるところによると「世界史は「精神」が自己実現する過程である」(本書16頁)という。だが,自己実現という言葉には注意を要する。というのも自分の意識下で自己実現するということをヘーゲルが言いたいわけではない,と柄谷はいっているからだ。つまり柄谷によればヘーゲルのいわんとすることは「人間の社会史は,何らかの意図・設計によって作られたものではない。それは人間の意図を超えたものであり,むしろ「無意識」によって強いられたものである」(本書16頁)ということである。
柄谷は「無意識」という言葉に注目した上で,ヘーゲルがその哲学史講義『ヘーゲル哲学史講義』においてソクラテスのダイモン(ダイモニオン)について述べていることを踏まえ,次のようにいう。「なぜソクラテスは広場に行って討議するようになったのか。その理由は不明である。しかし,ここで大事なのは,彼がそのことを意識しておこなったのではない,ということである。であれば,ダイモンとはソクラテスの「無意識」だといえるのではないか。ヘーゲルはそう考えた。」(本書18頁)
そして柄谷は,マルクスがヘーゲルの弟子を名乗ったのは,ヘーゲルにおける「無意識」を継承する点があるということを示唆する。すなわち

「「ヘーゲルの弟子」としてのマルクスは,『資本論』で「無意識」をもちこんだ,というより,ダイモン(精霊)をもちこんだ,といってよい。それが「フェティシュ」(物神)である。つまり,商品価値に関してフェティシュに言及したとき,彼は,そこに一種の霊的あるいは観念的な力が出現すること,そして,それが生産ではなく交換から来ることを洞察したのである。」(本書19頁)

2−6 交換の起源

柄谷によって提唱される「交換様式」の議論。そして交換様式Cとマルクスとの接続を訴える柄谷。柄谷とマルクスとの関連は,その一つとしてともに「クリティーク(批判)」という単語をタイトルの一部に含む作品を書いていることがあげられるだろう。柄谷行人『トランスクリティーク:カントとマルクス』とマルクス『資本論:経済学批判』とである。
柄谷は「一般にマルクスは『資本論』で,労働価値説,つまり,商品の価値がその生産に要した労働(時間)にあるという説を唱えた人だと見られている」(本書20頁)と述べた上で,しかし,マルクス(少なくとも『資本論』のマルクス)は労働価値説をマルクス以前に唱えていた国民経済学者(古典派経済学者),例えばアダム・スミス,と同じ路線で,物事を考えたわけではないと,次のように指摘する。

「マルクスはこのような労働価値説を継承したように見える。しかし,彼はこの線上で考えたわけではない。ある意味で,彼はスミスの否定した重商主義に立ち帰って考えた。いいかえれば,問題を生産ではなく,交換から考えようとしたのである。マルクスがそうしたのは,貨幣の”力”について考えようとしたからだ。彼は,貨幣をスミスのように商品に内在する(労働)価値を表示する記号として片づけるのではなく,なぜそれが特異な”力”をもつのかを解明しようとしたのだ。この力は,物の生産においてではなく,その交換において生じる。」(本書20-21頁)

マルクスをして「商品は,一見,自明な平凡なものに見える。商品の分析は,商品とは非常にへんてこなもので形而上学的な小理屈や神学的な小言でいっぱいなものだということを示す」(『資本論』第一巻,S. 85)といわしめた商品について,柄谷は商品の交換においてマルクスが見たものを次のように指摘する。

「彼がここに見たのは,商品交換において,「人間の頭脳の産物」であるにもかかわらず,「固有の生命」をもち人間を強いる「力」が存在するという事実である。それがマルクスのいうフェティシズムである。彼がそう述べたのは,それをたんに幻想や迷妄として批判するためではなかった。フェティシズムは交換において存在する”超感覚的”な力を指すが,これがなければ,単純な物々交換さえ成り立たないのだ。」(本書21-22頁)

ところで,柄谷はマルクス主義者がマルクスのフェティシズム論を真面目に検討してこなかった(本書22頁)と述べた上で,フェティシズムの問題が物象化の問題にいいかえらていることを指摘する(本書22頁)。だが,柄谷にとってこの「いいかえ」という名の「すりかえ」は無視できない問題を孕んでいる。この柄谷の様子は次の指摘をみればわかるだろう。

「マルクスがここで強調したのは,個人と個人の社会関係が交換を通して,つまり物と物との社会関係を通して形成されるということである。たとえば,資本家と労働者という生産関係は,資本家が労働者の「労働力商品」を買うことによって,すなわち,交換によって形成される。これは,資本制経済において人間の生産関係が物象化されるというのとは異なる。生産関係そのものが物の交換によって形成される,というのだから。」(本書23頁)

生産様式の根底に交換様式があり,交換様式を見ないことには世界史を基礎づける経済的下部構造の議論は不十分に終わることを柄谷は,この段階で一旦結論的に述べている。この記事の読者はマルクスが心配するような読者ではないだろう。つまり「心配になるのは,いつでも性急に結論に到達しようとし,一般的な原則と自分が熱中している直接の問題との関連を知りたがるフランスの読者が,どんどん先に進むことができないからといって,読みつづけるのがいやになりはしないかということです」(『資本論』第一巻,S. 31)という記述に当てはまる読者ではないだろう。しかし,柄谷の一旦の結論的言及をここで指摘しておかないと,「交換」という言葉を論じようとする柄谷『力と交換様式』の意図が不鮮明になるかもしれないので,以下に述べることとする。すなわち

「史的唯物論では,生産様式から見て,「古典古代的,封建的,近代ブルジョア的」な段階が区別される。しかし,このような生産様式の根底には,交換様式がある。たとえば,「近代ブルジョア的」,あるいは資本主義経済の「生産関係」を形成する「力」は,交換様式Cから来る。ゆえに,それは貨幣物神・資本物神と切り離せないのだ。古典古代的,あるいは封建的な段階では,交換様式BやAが優位であった。その意味で,世界史を基礎づける経済的下部構造は,生産様式だけでなく,むしろ交換様式にこそ見出されるべきである。」(本書24頁)

この結論的言及の後に,柄谷はマルクス『資本論』における貨幣についての言及をいくつか取り上げた上で,その言説を宗教的な「福音」であったり,キルケゴールの『死にいたる病』であったりに,それらの言及を結びつける。例えば「貨幣とは物に,一般的価値形態あるいは貨幣形態,つまり霊が「付着」した状態である。ゆえに,貨幣には,他の物と交換できる「力」がある。」(本書25頁)とか,「経済現象には,物質的な欲望に還元できないような何かがある。そこには,ある意味で宗教的な問題が見いだされる。マルクスはそこに「禁欲の福音」を見出した。(中略)資本の蓄積は,M-C-M'という運動を通してなされる。マルクスは,C-Mという過程に「命がけの飛躍」を見いだした。」(本書26頁,Mはmoney, 貨幣でCはcommodity, 商品,M'はmore money,より多くの貨幣を示す。)とかである。
次にキルケゴールについての柄谷の言及をあげる。「私がここで想起するのは,キルケゴールの『死にいたる病』である。彼は,神への信仰に「命がけの飛躍」を見いだした。それをなしえないことが「絶望」であり,その状態が「死にいたる病」である。」(本書26頁)
柄谷にとって,キルケゴールとマルクスは,ヘーゲル弁証法をそれぞれの文脈で批判した人物であり,その具体的な意味は以下の通りとされている。

「これはまた,そこにある「命がけの飛躍」を見ない,ヘーゲルの弁証法に対する批判でもあった。古典派経済学に対するマルクスの批判も同様である。古典派経済学者は商品に内在する価値が貨幣との交換によって実現されると考えていた。しかし,そこには「命がけの飛躍」が潜んでいる。ゆえにまた,「恐慌」の可能性がそこにある。」(本書26-27頁)

(ちなみに恐慌という言葉は英語でcrisisであり,これは危機という意味にもなる。いわば,crisisは経済的には恐慌であり,実存的には絶望であり,宗教的には危機といえるかもしれない。)

2−7 フェティシズムと偶像崇拝

柄谷にとって『資本論』のマルクスは「貨幣の起源を人類学的に考察しようとしたというべき」(本書27頁)である。そして他の物と交換できる「力」がある貨幣の「力」の由来を「交換において生じる物神(フェティシュ)に見いだした」(本書27頁)のがマルクスであると評する柄谷にとって,フェティシズムとマルクスとの関係は,重要な話題として立ち上がってくる。柄谷はその話題について次のように述べる。「マルクスがフェティシズムについて知ったのは,一八四二年にシャルル・ド・ブロスの『フェティシュ諸神の崇拝』を読んだときである。フェティシュという概念は,ド・ブロスが最初に定式化したものであるが,元来,アフリカの住民の間で行われていた護符・呪物崇拝を意味していた。」(本書27頁)
そして柄谷自身はフェティシズムを次のように考えている。「私の考えでは,フェティシズムは,のちにマルセス・モースが贈与交換(交換様式A)として考察した問題につながっている。その意味で,マルクスが貨幣形態の起源を論じる際にフェティシズムをもってきたとき,交換様式Cの起源にAを見いだしたといってよい。ただ,ここで興味深いのは,フェティシズムという概念がそれ自体,「共同体と共同体の間の交換」から始まったということである。」(本書28頁)
ここで,柄谷はフェティシズムと偶像崇拝は通常同一視されているが,マルクスはこの二つを区別していると述べる。資本制経済の宗教性を見いだした(と柄谷は考えている)マルクスを論じるにあたって,この区別は重要であろう。さてどのように柄谷はこれについて述べているか。

「重要なのは,フェティシズムと偶像崇拝の区別である。通常,それらは同一視されている。しかし,偶像崇拝が神への屈服であるのに対して,フェティシズムは神への攻撃である,とマルクスはいうのだ。私の考えでは,それは次のようなことを意味する。アフリカ人のフェティシズムが氏族社会を形成する交換様式Aにもとづくのに対して,偶像崇拝は国家や資本を形成する交換様式BやCにもとづく。『資本論』でマルクスがいうフェティシズムは,後者のような偶像崇拝である。」(本書29頁)

2−8 エンゲルスの『ドイツ農民戦争』と社会主義の科学

ここまでの叙述において柄谷は,エンゲルスのことを事実に反する記述を行った人間として扱ってきていたが,ここにきてエンゲルスに対して別の評価を与えるようになる。すなわち史的唯物論に欠けている問題を考え続けた人という評価を与えることになるのだ。
柄谷がしきりに「霊」を叫んでいるのを見て,柄谷が意味不明なことを言い始めた,などと考え始めてしまうかもしれない読者のために,柄谷における「霊的な力」という言葉の意味を取り上げる。その上で,柄谷において交換様式A,B,Cに結び付けられているそれぞれの思想家について取り上げたい。まず柄谷は「私の考えでは,さまざまな霊的な力は,たんなる比喩ではなく,異なる交換様式に由来する,現実に働く,観念的な力である。」(本書31頁)と述べる。ここで重要なのは観念的という言葉はそれ自体で非現実的ということを意味しない,ということだ。電気の力や磁気の力,万有引力の力などを我々はみることはできないからといって,それを非現実的な力であると考えるのは,あたかも思想的な問題を解決すれば現実を変えることはできるのだとする,妄想逞しい人のようである。(もちろん思想的な問題を変えずして現実を変えることができるわけではないことに,留意されたい。)
閑話休題。交換様式A,B,Cそれぞれに対応する思想家への柄谷の言及をここで述べる。まず交換様式Cについて。マルクスは「『資本論』において解明しようとした。つまり,彼はそのとき,貨幣や資本の亡霊(物神)を,交換様式Cとともに生じた観念的な力として考察する道を切り開いたのだ。彼が「ヘーゲルの弟子」であることを公言したのは,その時点である。」(本書31頁)次に交換様式Bについて。「マルクスに先だって,社会的な交換から生じた霊的な力を見出した思想家がいた。ホッブズである。彼が国家を論じたとき,「リヴァイアサン」(怪獣)と名づけたものは,「恐怖に強要された契約」,すなわち,交換様式Bから生じた霊にほかならない。」(本書31頁)最後に交換様式Aについて。「マルクス以後に,交換様式Aから生じた霊(ハウ)を見出した思想家がいた。『贈与論』のマルセス・モースである。」(本書31頁)
そして柄谷は,マルクス『資本論』のいわば「方法」を用いて次のことができると言明する。

「マルクスが『資本論』で考察したのは交換様式Cだけであるが,それ以外の交換様式,たとえばAやBについて考える鍵をそこに見いだすことができるのだ。いわば『資本論』を”導きの糸”とすることによって,史的唯物論の公式では”政治的・イデオロギー的上部構造”として棚上げされてきた諸問題を解明することができる。いうまでもなく,それらを経済的下部構造としての交換様式から見直すことによってである。」(本書32頁)

このような導きの糸に沿って,その諸問題の解明を企てたのは誰か。と問うて柄谷は答える。「実は,それを最初に企てたのは,『資本論』の後のマルクス自身である。」(本書32頁)この点について,柄谷はマルクスが共産主義あるいは社会主義を理念としてみることを拒止していた(本書33頁)と述べつつも,ルイス・モーガンの『古代社会』をマルクスが詳細に摘要したことを指摘して次のように述べる。「晩年のマルクスは,共産主義を,「古代氏族の自由,平等および友愛のより高度の形態における復活」として見るモーガンに共鳴したのだ。それは社会構成体の歴史を,生産様式ではなく交換様式から見る観点にほかならない。だが,まもなくマルクスが死去したため,それは注目されなかった。」(本書33頁)
さて,ここでエンゲルスの登場である。柄谷をして『力と交換様式』を書かしめた人物としてエンゲルスが登場するのである。

「近年になって,私が興味をもつようになったのは,「社会主義の科学」を唱えたエンゲルスのほうである。これまで私は,彼をもっぱら「史的唯物論」の創始者として見てきた。「社会主義の科学」といっても,結局,史的唯物論の言い換えにすぎないように見える。しかし,必ずしもそうではない,ということに気づいたのである。本書を書き始めたきっかけは,むしろそこにある。私が注目したのは,エンゲルスが史的唯物論に欠けていたような問題にいち早く関心を抱いたこと,のみならず,それを死ぬまで維持したということである。」(本書33-34頁)

柄谷はこの論点についてエンゲルスの『ドイツ農民戦争』という作品を取り上げて説明している。「彼は『ドイツ農民戦争』(一八五〇年)で,ドイツの千年王国運動の指導者トマス・ミュンツァーを論じた。(中略)エンゲルス自身も,社会主義は,たんなる観念の産物ではなく,生産様式(生産力と生産関係)の発展の結果として生じる物だと主張していた。そんな人物がミュンツァーのような宗教的指導者を称賛したのである。」(本書34頁)
加えて,柄谷は自分自身の著作群を振り返り,交換様式Dを本格的に論じるのは,本書が初めてであるという。この論点は,柄谷の思想を論じる上で重要であるように思われるから,長めの引用になってしまうのだが,いとわずに引用をする。繰り返す。次の引用は柄谷の思想を論じる上で,とくにその神学的な意味を論じる上で重要である。

「さらに本書を書く過程で気づいたのは,「社会主義の科学」は,もしありうるとすれば,社会主義を交換様式において見ることによって成り立つということである。すなわちそれを交換様式Dとして見ること。私はこれまでの著作で交換様式について論じてきたが,A・B・Cが中心であった。Dに対して本格的に向き合うのは,事実上,本書が初めてだといってよい。Dは厳密にいえば,交換様式というよりも,交換様式A・B・Cのいずれをも無化するような力としてあるものだ。またDは「Aの高次元での回復」として生じる。が,そのようにいうとそのころが,われわれの意志や企画によって実現できるものであるかのように見えてしまう。しかし,そうではない。重要なのは,Dが人間の意志や企画によって生じるものではない,むしろ,それに反してあらわれる,ということである。それは観念的な力,いいかえれば,「神の力」としてあらわれるのだから。」(本書34-35頁)

2−9 交換と「交通」

資本=ネーション=国家という三位一体,あるいはボロネオの輪。これを否定する物としての交換様式Dを柄谷は論じようとしているわけであるが,序論の最後の節となる本節で柄谷は「交通」の問題を取り上げる。「最後に,言い残したもう一つの「交通」の問題がある。それは人間と自然との間の交通,すなわち,「物質代謝」(『資本論』第一巻第一篇第一章,岩波文庫(一))の問題である。マルクスが交通という問題を考えたのは,そもそもモーゼス・ヘスの影響であった。ヘスが「交通」を,人間と人間の間だけでなく,人間と自然の間にも見出したのである。」(本書35頁)
その上で柄谷は,『資本論』においてマルクスが「交換」と「交通」とを区別していると述べている。マルクスは「人間と自然の間の「交通」という問題を見落とさなかった。ゆえに,『資本論』で,この問題を取り上げたのである。ただ,その時点で,彼は人間と人間の間の「交換」と,人間と自然の間の「交通」の違いを意識していた。それは,前者から観念的な力,すなわち霊的なものが発生するのに対して,後者にはそれがない,ということである。つまり,人間と自然の交通において生じる力は,純粋に物質的な力だ。」(本書36頁)
「交換」と「交通」のマルクス『資本論』における違いについてより具体的に,柄谷は次のように述べる。「『資本論』でマルクスは,貨幣・資本の霊(物神)が人間を支配するにいたる過程を考察した。それは人間と人間の交換から生じた問題である。しかし,そのとき,彼は人間と自然の関係に関して,産業資本主義とともに,かつてない事態が生じていることをとらえていた。それは,いうなれば「交通」の消滅,すなわち,自然環境の破壊である。」(本書37頁)
「交通」の消滅について,柄谷はマルクス『資本論』にて資本主義的農業についての記述と,工業生産についての記述を『資本論』から引用した上で(本書38-39頁)しかし,このような『資本論』の認識は重視されてこないままであったと指摘する。

「しかし,『資本論』に以上のような認識があることは,重視されないままであった。(中略)だが,「経済学批判」の根幹が,経済を生産だけではなく交通において見るというところにあるとすれば,当然,それは人間と人間の間だけでなく,人間と自然の間にも見出されなければならない。しかし,産業資本主義とともに始まった「経済学」には,それがなかった。そこでは,自然は「交通」の相手ではなく,ただの物質的対象であった。」(本書39頁)

そのうえで,柄谷は現在において,言い換えれば交換様式Cが支配的になった段階において,理性的で科学的な言説だとみなされているものは実は資本物神に従ったものの可能性があることを述べている。柄谷の科学に対する姿勢を見極めるものとして,重要なものであると思われるから,引用を行うこととする。

「化石燃料とはまさに自然史の産物である。つまり,人間と自然の交通関係を歴史的に刻印するものだ。そのような化石を燃料として使用するとき,まさに人間と自然の「交通」の歴史を化石として焼却することになる。自然に神々を見出すような考えは迷信として斥けられ,自然はたんなる物的対象となった。しかし,それは,人間が迷信(観念的な力)から自由になったからではない。資本物神に従って考えふるまうことが,理性的で科学的だと見なされるようになったからだ。」(本書40頁)

そして柄谷は序論を以下の言葉で締めくくる。「交換様式Cから生じた物神は,人間と人間の関係のみならず,人間と自然の関係をも歪めてしまう。のみならず,後者から生じた問題が,人間と人間の関係をさらに歪めるものとなる。すなわち,それは資本=ネーション=国家の間の対立をもたらす。つまり,戦争の危機が迫りつつある。」(本書41頁)

3 神学としての『力と交換様式』

この記事の執筆者は,このようなマガジンを書いているくらいには,キリスト教神学を学んでいる人間である。(もっともこのマガジンはしばらく更新されていないのであるが,そして更新を急かすような外圧は存在しないのであるが,いずれ新しいものを書きたいと思っている。)こういう人間が柄谷行人『力と交換様式』について書いたということもあり,私にはどう頑張っても,この著作を神学から切り離して読むことがかなわないのである。こういうバイアスのかかった人間がこの記事を書いたということを,この記事の読者は理解していただければ幸いである。
(だとしたらこういう注釈を文頭に書くべきではないか,といわれるかもしれない。けれどこの注釈を文頭に書いていると,むしろ柄谷行人の「神学」っていったいなんなのだ,という疑問が先行してしまうおそれがあるので,ご容赦いただきたい。もっとも,本来であればまえがきに相当する部分に書くべきことがらを,あとがきにかいてしまうというスタイルは,柄谷から学んだことである。具体的には柄谷行人『遊動論ー柳田国男と山人』文春新書,2014年,などを参考にされたい。)

目次と序論を取り上げ,それについての要約的解説ならびに敷衍的解説を書いているだけで,およそこの記事の字数は15000字くらいになっているようだ。この記事にある引用の多くを,この記事の執筆者が要約して提示するというスタイルをとればこの字数にはならないに違いない。だが,それは知的な営みではないということを,つまり引用を過剰に少なくしてやたらと自分の言葉でまとめることを推奨する営みは知的な営みでないということを,この記事の執筆者たる私は信じている。学びは「まねび」であって「真似」することが必要であるからだ。「独創の正体は精緻な模倣である」(アインシュタイン)

最後に『新約聖書』から一言引用して,この記事を締めくくりたいと思う。

「神の国は,見られるかたちで来るものではない。また「見よ,ここにある」「あそこにある」などとも言えない。神の国は,実はあなたがたのただ中にあるのだ。」(「ルカによる福音書」17章20-21節)






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