生き苦しいの処方箋

2年前のちょうど今くらいの時期、私は某ジェンダーレス声優さんのYouTubeを視聴して、自分にも性別に対する違和感があることを自覚した。

心のうえで女性であることに興味がなく、かといって、肉体のうえで男性に成り代わりたいとも思っていない部類の人間。
当時はそのように語った気がするけれど、あれから色々な情報を得てきた今、自分がどういった指向の人間であるかは「ノンバイナリーのデミセクシャル」とはっきり言えるようになった気がする。

LGBTQの当事者以外には伝わりづらくて、耳慣れないだろう横文字だろうけれど、平たく言うと「特定の性を持たない・持ちたくない性別(=ノンバイナリー)で、他人への性的な興奮は基本的に覚えない人(=デミセクシャル)」を指す言葉だ。

よくよく思い返すと、昔こじらせていた鬱もこれが要因だった部分が大いにあって、兎にも角にも、これがまあ孤独でキツい。

自分の抱える不和に名称があると知って安堵したのも束の間、とはいえ「どうにもならずにぶち当たる壁」を感じはじめている近況もあるので、いつかまた自分のメソメソが極まったとき用の備忘録を残していこうと思う。


◆「デミセクシャル(半性愛)」という指向

私の欝は、世の中にしれっと定着している「結婚プロパガンダ」にあてられて2016年からじわっとはじまり、2020年に強制終了的に寛解したのだけれども(※過去記事参照)、忘れた頃にぶり返すバッド(トラウマのフラッシュバックから加速するネガティブ連鎖のことを勝手にそう呼んでる)では、やはり大抵人恋しくなる。

私も人間なので、メソメソしている瞬間は布団にこもってただただ頭を撫でられたり、背中をさすって頂きたい気持ちになるのだけども、しかしその環境を実現するには大前提としてパートナー(あるいは親兄弟)が必要だ。

でも他人に性的興奮を覚えない私にはもう長いことパートナーがいない(し、諸般の事情で信頼できる家族もいない)ので、とても寂しい。

こう相談を持ちかけると、多くの場合は「じゃあ程よい相手を作ればよいのでは?」とか切り替えされるのだけど、デミセクシャルの人間にとって、それは容易なことではなかったりする。
モテる・モテない以前の話で、恋愛というレールに人間関係を乗せるまでの道のりが、やたら長いのだ。

「他人に性的な興奮をほとんど覚えない」というデミセクシャルの傾向は、例えるなら「犬や猫はかわいいし愛しいが、性的な興奮までは覚えない」という感覚に近い。
そして、「ほとんど」と言うからには例外があって、「深く信頼する相手にだけ性的な感情を抱くことがある」という特徴を持つ。

なんだその、恋愛ゲームで一番面倒くさい条件分岐を発生させて、なおかつ好感度をめちゃくちゃ上げないと攻略できないシークレットキャラみたいなやつは、と思うんだけど、本当の話。

これが一体どいうことなのかというと、デミセクシャルの人間が恋愛を行うとき、本人のものさしで一定の信頼を置ける状態になるまで、相手は有象無象のひとつにすぎなくて、その条件を満たしたときにようやく「恋愛対象として悪くない」というステージの扉が開くということ。

とても高慢ちきで高望みにも見えるかもしれないけれど、裏を返すと、どんなに顔がよくて高身長の高収入ハイスペックでも、信頼レベルが足りていないと恋愛的にはどうでもよろしく、しっかり有象無象認定されるので、決して高嶺の花を気取っているわけではない。

ちなみに好き嫌いの判断は逆もまた然りで、本人が一定の信頼を置いていて恋愛対象として見ていた相手でも、何かしらの行いで信頼の既定値的なものを下まわった瞬間、昨日までいい感じだった恋が一瞬で冷めたりもする。

そんなわけなので「試しに付き合ってから考える」とか、「身体の相性を見て考える」とか、「とりあえず結婚を前提にパートナー候補としてお会いする」みたいなことが、世の中の皆さんほど器用にできないのだ。

人を好きになる楽しさや、好きな人から好かれる嬉しさを全く知らないわけじゃないから人恋しいのに、流行りのマッチングアプリも肌に合わず、知人や友人の紹介にもうまくなびけず、運良くある程度の信頼条件を満たす相手に出会えて恋愛スイッチが入ったとしても、その後に性愛スイッチが入っていない状態でデートやらスキンシップやらが進むと「え、まだそんな関係じゃなくない?」になってしまう生き物のことを想像してみてほしい。
その頭が固くて非常にしょっぱい存在が、デミセクシャルだ。

多くの人が「相手のことを知っていくためのお付き合い」をするのに対して、デミセクシャルの人間は「相手を知ってからのお付き合い」をする。
奥手とか硬派といった具合に語ると聞こえはいいけれど、どれくらい順序を崩されるのが嫌かと言うと、蕁麻疹が出て寝込むくらい無理。
嫌よ嫌よも好きのうちなんてものはない。

デミセクシャルの愛情は「友愛→恋愛→性愛」のようなレベルが堅く設けられているような状態なので、友愛レベルが足りていないうちから性愛アプローチをされると、信頼を裏切られて強姦されている気分になり、その後の進展は高確率でなくなる。
嫌よ嫌よは死んでも嫌なのだ。


◆「ノンバイナリー」という性別

私の場合、「デミセクシャル(半性愛)」に「ノンバイナリー」という無性性が絡んでくるので、話が一層ややこしくなる。

「女性として恋愛対象を見る目が厳しい」だけならまだしも、「女性として定まるつもりはない」私は、性別や外見といった表面的な要素を頼りに好意を寄せてくれる相手に、申し訳なくも辟易してしまうきらいがあって、一言で申し上げると「性的な目で見られたくない」のだ。(※過去記事でも度々語っているかも)

もちろん、パートナーには色々な形があって、異性のカップルもいれば同性のカップルもいて、いつまでも恋人同士のように仲睦まじい二人もいれば、互いのメリットのために合理的に連れ添っているビジネスライクな二人もいる。
だから、お互いに落ち着くような付き合い方に到れれば、結局のところなんでもよいのだということは分かっている。

それは分かっちゃいるのだけれど、なんだかんだで恋愛の延長線上には性的なコミュニケーションがあって、それには「お互いで理解を示し合う」というのが社会的な意味での結婚や交際の暗黙の了解に見受けられるので、そういった関係を築いていこうとするうえで、私という人物の性格や指向を理解されないうちから好意を向けられることが、思いのほかつらかったりする。

うまい例えが思いつかないけれど、「自分は男性で相手も男性だけど、相手の初恋の女の子に似ているからという理由でめちゃくちゃ好かれている虚しさ」とか、「自分はただの電柱で、たまたまメス犬の匂いが残っていたら、それを嗅ぎつけたオス犬がやたら興奮してマーキングしてくるときの理不尽さ」という感覚が近いのかもしれない。
もし「初恋の女の子に似ている男の子」や「電柱」があなただったら、嬉しいだろうか? たぶん、多くの人はそんなことないと思う。

私にとって恋愛は、不要と認識している性の色分けが、相手から好意を向けられるたびに否応にも塗り替えられる一大事で、必死に守ってきた尊厳的なものがズタズタになる戦争なのだ。
だから極端な話、私を性的な目で見ることでそれだけの精神負担を強いる以上、開戦の狼煙をあげた相手には相応の腹を括ってほしくなる。
例えば、誠意や覚悟を確かめる意味合いで「私が男でも、同じように口説きましたか?」と訊ねたいくらいだし、お付き合いしている間に女性特有の扱いをされようものなら「私の性別に関わらず、人としての気遣いだけをしてほしい」と感じたりする。
もちろん、それらを凌駕して「はい!」と返ってくるなら大歓迎だけれど、今のところそんな試しは一度もない。

さらに私は、女性らしさに溢れた自分の名前も大嫌いなので、お近づきのしるしに名前で呼ばれた日には絶句してしまう。
私は「花の名称に子」というよくある字面の名前だけど、とにかく女の気配が強すぎて気持ち悪く、これまで知人各位には名字呼びか、本名にかすりもしないニックネーム呼びをお願いしてきた。
それは一重に、幼少期の家庭で男尊女卑と長男教が激しく、自分が女性であることで損をしてきたトラウマが原因なのだけど、つまり、昔から深層心理で「自分の持つ女性性」を拒絶していた筋金入りなのである。

いまだに隙あらば中性的な響きに変えたい名前も、好意に由来する気遣いやお誘いも、「女性だからこう」と勝手に定められたものには軒並み吐き気を催している人生で、私は性別というものを手放したい人間なのだ。


◆少数派の生きづらさ

ここまで読んでくれた方はもうお気づきかと思うのだけど、私は非常に面倒くさい属性の掛け合わせで、マイノリティー・オブ・マイノリティーを極めつつある。
「無性の半性愛者」というのは、出た目の数に応じて色や形を変える無茶苦茶なサイコロのようなものだ。

せめてどちらか一つだったら、マイノリティーの中でも多少のマジョリティーに収まっていたかもしれないけど、タラレバを考えてもどうにも覆らないことなので、もはや受け入れて過ごしやすい生き方を自己開拓していくしかないわけです。

セクシュアルマイノリティーという言葉が世の中で権威を持ちすぎていて、近年は何だか気高いブランドのように聞こえている錯覚もあるけれど、でも結局、何の少数派かって「性的指向において多数派ではないほう(=一般的ではないために成就するには障害が多い)」という意味なので、いわゆる恋愛弱者なんだよね。
大勢に通用する模範解答にあやかれないぶん、一筋縄でいかない立場には、正直なところ疲れを感じる。

寂しくて、不安で、圧倒的に孤独を感じるのだけれど、それを解消するにはパートナーが必要で、でもパートナーは誰でもよくなくて、私が女性でも男性でもどっちでもよくて、性的な興奮に支配されない、信頼の置ける人と生計をともにしたい。
そ〜~~~~んな最初から都合のいい相手、世の中にゴロゴロいるわけじゃないじゃん!ってのは自分が一番分かってるのよ。でも、いくら頭で理解していても気持ちがついてこないので、やっぱり置き去りにはできないわけです。

ノンバイナリーもデミセクシャルも、それ自体はぜんぜん悪いことではないのに、生きやすいかどうかで言ったらはちゃめちゃに生きづらくて、白目剥きそう。

誰かと手を取り合って平穏に生きたいだけなのに、なんで生殖活動の優先度を下げるだけで、こんなに難しいんだろう。
ヒトという生き物の本能として、種を残せないことが建設的ではないから? なら仕方ないのだろうか。

何が言いたいんだかよく分かんなくなってしまったけど、たぶんまた何年後かにメソメソした私はこの記事を見て「そう言えばそうだったな」って納得するだろうから、これでよしとしよう。

もしそれでもグズグズが続くようなら、手っ取り早い自己解決は、不安や怯えが痛くも痒くもなくなるくらいの経済力を身につけることだっていうのも、ここに書いておく。
金の解決が全てじゃないけど、金で解決できることは多い。
で、金がなければ時間を使え、だ。

私は一つずつ、自分という人間が抱えているしこりを取り除いていかなくちゃなあ。
取り除くのが駄目ならほぐすだけでもいいから、そうやって「生き苦しいもの」を手懐けていかないと、あと数十年ある余生を過ごしていけないよ。

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