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自分がする仕事の価値は何だろう?

先日夜に必要なものがあり
ドラッグストアに買い物に行った。

私が住む田舎町は人口の割に
妙にドラッグストアが多い。

今回必要だったものは別に
ドラッグストアでないと買えないものでは
なかったのだが、
夜21時まで開店しており、
コンビニに比べて距離も変わらないのに安いので
ドラッグストアに買い物に来たのだ。

夜なのに煌々とまぶしい店内で
必要なものをカゴに入れて
そそくさとレジに向かった。

レジには茶髪の若い店員さんが一人
退屈そうにしている。

閉店間際で他のお客さんもいないので
完全に仕事終わりモードなのであろう。

私が買い物かごを置くと
その店員さんはふいに
「袋どうしますか?」と聞いてきた。

エコバッグを持っていなかったので
「はい。お願いします」と言うと
「サイズはどうしますか?」と返された。

だが、私が見る限りレジの周りには
袋のサイズも値段も一切表示されていない。

私が買ったものは食品なども含んでいるので
それなりに嵩張っている。

この時点で内心少しムッとしながら
「サイズは何があるんですか?」と
店員さんに尋ねた。

「中、大、特大があります」
そう返ってきたが、
それぞれがどのようなサイズなのかは
全くわからない。

これがもしも「小、中、大」だったならば
私は迷うことなく中を選ぶだろうが、
この店ではなぜか中、大、特大なのだ。

レジ袋はゴミを捨てるときに重宝するので
私はあえて時々レジで購入しているが、
大は小を兼ねると思って大きいものを買うと
いざゴミ用に使う時に何だかもったいない気がする。

なので、結局私は中を購入することにし、
店員さんにそれを伝えた。

そして会計が終わり、
買った商品を袋詰めしようとし始めて
私はあることに気が付いた。

どう見ても私が買ったものは全て
この中の袋に入りきらないのである。

食パンなどを無理やり詰め込めば
入らないこともないのだろうが、
そうしてしまうとパンの形が崩れてしまう。

幸いこの時は車で買いに来ていたので
パン以外を袋に詰めて
パンだけは手で持って帰ることにしたのだが、
私の頭の中ではイライラが渦巻いていた。

先ほど書いたようにレジ周りには
何のサイズの袋が取り扱われているのか
何の表示もなかった。

この時点で私達は想像することしか
出来ない状況である。

だが、店員さんは違う。

レジ袋がどんなサイズかを知っているし
顧客が買った商品が入るかどうかは
何となく見ればわかるはずなのだ。

にもかかわらず、店員さんは
私が中サイズの袋を依頼した時点で
何も言わなかったのである。

もちろん、私が袋を選ぶ時点で
「見本を見せてもらえますか?」と
聞けばよかったのであろうが、
レジ袋の購入にそのようなプロセスを
挟むのは何だかバカバカしい。

店員さんとしてはマニュアル通りの仕事を
したに過ぎないし、
何も間違ったことはしていないが
正直、この対応ならばセルフレジに
置き換えても何ら問題ないと思ってしまった。

仮にセルフレジで同じような状況に
陥ったとすれば、
ここまで私は憤ることはなかったであろう。

ではこの差は一体なぜ生まれるのだろうか。

それは店員さんへの”期待”の有無ではないだろうか。

私は店員さんに対して袋の大きさの説明や
アドバイスを無意識のうちに期待していた。

だが、それらの期待は見事に外れた。

なので私は憤りを感じたのである。

では、レジを人がすることの価値とは
一体何なのだろうか。

セルフレジなどの機械に慣れていない
高齢者の方にとっては
人がいるレジは間違いなく価値になるだろう。

また、買い物かごに取り付けるタイプの
エコバッグを持参している人からすれば
レジ打ちと同時に袋詰めもしてくれるので
店員さんがいることはメリットとなる。

だが、今回私が遭遇したシチュエーションでは
店員さんがいるメリットは正直
一つもなかった。

アルバイトで仕事をしているであろう
この店員さんに対して、
色んなことを求めるのはお門違いかもしれない。

しかし、自分がした仕事の価値が何なのかを
考えられない仕事への取り組み方は
この店員さんにとってもあまりに
もったいないと思うのだ。

少し前に読んだこの本にも
こんなフレーズが書かれていた。

「お金を払うというのは、自分で解決できない問題を
他人にパスしてるだけなんや。」

「君のお金は誰のため」田内学著 より抜粋


私にとってレジをうつことも
袋詰めすることも自分で解決できる問題であり
そこにはお金を払う価値を感じていない。

だが、今回のシチュエーションでは
袋を選ぶことは自分には解決できない問題で
あったのだ。

それを感じていたからこそ私は
店員さんに対して期待をし、
そして苛立ってしまったのだろう。

小さなお店でも会計を自動でする機械が
目に見えて浸透してきているし、
回転ずしなどは案内時以外
店員さんと話さなくてもいいような
仕組みができ始めている。

明らかにかつての人の仕事が
機械に置き換えられている。

そんな中で自分の仕事の価値が
何かわからない働き方をするのは
自分の時間を切り売りするのと
何ら変わらないと私は思う。

今はまさに機械に置き換えられる
過渡期なのだろうが、
間違いなくこのような仕事のスタイルは
今後消えていくはずなのだ。

そう考えると、私が今回感じたような苛立ちは
今後感じること自体少なくなるのかもしれない。

それはいいことなのか悪いことなのか
何だか複雑な気持ちになってしまうのは
私の中にまだ昔の時代の記憶が
鮮明に残っているからであろう。

今回のエピソードは苛立ちこそしたが、
なかなか味わい深い経験であった。



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