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嫌なコメントから学んだこと

少し前、私が書いた記事にとあるコメントを頂いた。

私は通常頂いたコメントに対しては
返答を書かせて頂くことにしているが、
その時は返答をしないことに決めた。

それはあまりに私が書いた文脈を無視した
コメント内容だったからである。

しかも、そのコメントを下さった方は
初めてお目にかかった方。

気になってその方のプロフィールを拝見すると、
別の方の記事にコメントをしたら
その方からブロックされたというような
内容が書かれていたのである。

恐らくこの方には全く悪気はない。

他の発信者の方の記事を読んで引っかかることがあれば
それを率直にコメントにしてしまうタイプという
だけなのであろう。

だが、その率直なコメントが受け手にとっては
攻撃をされたかのように映ることは
しばしばあるものである。

正直私も自分が書いた記事の内容で
本質的ではない部分に対する指摘を
「〇〇やで」というような軽いノリで
コメントを頂いたことに対して、
攻撃されているかのようなニュアンスを
感じてしまった。

ご本人にそのような意図はなくとも、
何となくバカにされたような気が
してしまったのだ。

今でも細々とX(旧Twitter)での発信を
続けているが、
あちらではこのようなリプライ (返信)を
頂くことがしばしばある。

Xは原則として140文字しか発信できないので、
かなり内容を絞って発信する必要がある。

その絞るプロセスでどうしても前提条件が
抜けてしまうので、
ある程度は読み手の方と認識の齟齬が生まれるのは
仕方がないと割り切っている。

だが、noteではそのような懸念は明らかに少ない。

基本的に初めて読んだ方にもご理解いただけるように
前提条件も必ず記事の中には書くように
心掛けているからである。

しかし、このコメントを下さった方は
その前提を読み飛ばし、
ご自身がお持ちの知識で反論できる材料を
投げかけてこられたのだ。

正直、このコメントを頂いたことは
のどにひっかかった魚の骨のように
私の中でモヤモヤとしていた。

だが、なぜモヤモヤと自分の中に
残っているかと考えた時に、
一つの理由が思い当たった。

それは自分も同じようなことを
している可能性があることである。

もちろんnoteやXではしっかりと
発信された内容を見たうえでコメントするように
しているが、
家族など近い関係性の人との
会話の中ではどうだろうかと考えた時、
必ずしも正確に聞き取ろうとせずに
言葉を発していることがある気がするのだ。

特に子供に対してはそのような対応を
とりがちになる。

何かを子供に対して指摘したときに
子供がそれに対して言い訳をしていれば
本来はしっかりとその内容も聞いて
反応すべきなのに、
その内容は無視した回答をしてしまった事例が
記憶の中にある。

私もまさにこのコメントを下さった方と
同じ要素を持っていたのである。

よく同族嫌悪をという言葉を聞くが、
まさに私がこのコメントを頂いて
嫌な気分になったのは、
同族嫌悪からくるものなのかもしれない。

もちろん、noteやSNSなどのパブリックなスペースで
私が子供たちに対してするような
対応をすることはマナー違反であることは
言うまでもないが、
子供たちに対する対応については
私も反省すべきポイントが多い気がした。

そういう意味では、このコメントは
私にとって大切な気づきをくれたコメントである。

何だか心に引っかかっているものは
必ずそこに心の動きがあり、
そしてもれなく学べる要素があるもの。

今回のモヤモヤはまさに私にとって大切な
学びの種となった。

これもこうして発信しているからこそ
気が付けることなのであろう。

改めてこのように発信をしている事は
私にとって大きな学びになっているのだと
実感した早朝であった。

ちなみに私はnoteの記事ネタを
スマホのメモに一言で書いているのだが、
この記事のネタは「不躾(ぶしつけ)なコメント」であった。

不躾とはその文字の通りしつけができていない
無作法という意味である。

つまり、発信された内容の
文脈をしっかりと読むことは
私にとってマナーの一つだと
捉えているということである。

何気ないワードチョイスからも
自分の捉え方はにじみ出るものだと思うと
改めて過去の自分の記事を読み返してみるのも
面白いかもしれない。

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