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同じことは書けないから。

日々、ブログを書くことにおいて
むつかしいことは、やっぱり、
今回のブログでは何を書くのか?
というのを考えることなのだとぞんじます。

たとえば、
一昨日、あるブログを書いて、
きのう、あるブログを書いて、
きょう、あるブログを書いて、そして、
あしたもまた、あるブログを書くだろう、
ともすれば、毎回のブログにおいて
書く内容もちがったことを書く、とも思うけれども。
ちがった内容のブログを書く、というのもね、
なぜ、ちがった内容のことを書くか?
と言えば、つまりはさ、厳密的に言うならば
「同じことは書けないから」だと思うのよね。

きのう、書いたことを
きょうもまた書こうとして、
それを書き始めようとしてみても、
全く同じことを書くとして、でも
一語一句、完全に同じには書けないだろう。

コピー&ペーストをしたり、また、その隣りに
きのうの原稿を置いて書き写すならばまだしも、
なんにも見ずに全くきのうと同じことを書くとなれば、
文章を書く技術とかレトリックとかの以前に、
記憶力の問題にもなってくるとも思うし、そんな
記憶力を基にして書くなんてえのは、
「文章を書く」ということにもならない気もする。

そういうことをするときにね、どうして
「記憶力」が問題になってくるかと考えれば、
すでに一度書いたからだ。

きょう初めて書く文章を書くときには、
初めて書く気持ちで書くことができるけれども、
その文章を書き終えてから、
翌日もまた同じことを書こうとすれば、もう、
初めて書く気持ちでは書くことができない。

なにかを書いてしまったら、
それを書く前のじぶんには戻れない、
というか、つまり、言い換えれば、
なにかを書けば、それを書くことによって
じぶん自身が変化してしまう、
とも言えるやもしらないなあ。

その変化がね、サイズとして
大きいか小さいかはしらないけれど、
それを日々、続けてゆくとすれば、たとえば、
一昨日、あるブログを書いて、
きのう、あるブログを書いて、
きょう、あるブログを書いて、そして、
あしたもまた、あるブログを書く、のだともすれば、
あしたのブログを書き終えた時点では、もう
一昨日のブログを書き始めるときの気持ちには、
ぜんぜん戻れないんだろう。

それはでも、たとえば、
ブログを書くことだけでなくって、
なにかの「表現」をするということはすべて、
そういうような問題を孕んでいる、と思う。
つまり、ある表現を
「する前」と「した後」とでは、
その表現者は容赦なく変化してしまう。

さくじつのブログで申しあげました
吉本隆明さんの講演『芸術言語論』の中では、
さくじつ申しました「沈黙」以外にもね、
【人間がある表現をすると、必ず、
 自然は表現しただけ変化します。】
とのようにもお話しされているのですが。
今、ぼくが、吉本さんのおっしゃるこの
「変化」のことを考えるとすれば、
なんだかこういうようなことを思うのよね。

ってゆうふうなことを書いたぼくは、
これを書き終えた時点において、
書き始める前のじぶん自身とは、
いくらか変化してしまっているはずだ。
その変化ってえのは、でも、やっぱり、
恐怖でもあるし、かつ、同時に
希望でもあるやもしらない。

その希望というのはさ、つまり、じぶんが
もっとよいふうに変われたらよいなあ〜!
なんて思っちゃうのよね〜。

令和5年7月6日

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