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「頭がよい」とは言えないんではないか?!

「頭がよい」とはどういうことなのか?
って、ぼくはよくわからないな。

たとえば、おそらくよく言われるのは
勉強ができる、及び、
よい学校(大学など)を出ている、
のようなことだと思うのですが。
学校の勉強がよくできる、ということは
「頭がよい」のうちのひとつだとは思うけれども、
それだけに限らないとも思うの。

「学校の勉強ができる」というときの要素として、
あるころからよく言われるようになった
「地頭(じあたま)がいい」的な、つまり、
いやでもぼくはこのことばの意味を
完全に把握しているわけじゃあないけど、
その人が本来持つ頭のよさ、のような、たとえば
授業で一度聞いたら即、理解して、問題も解ける、的な?!
そういう人は、たぶん、学校の勉強ができる。
あとは、一般的に言えば、
家族の事情や家庭環境であったり、
親の収入及び親の学歴も、
学校の勉強に関係している、というのも聞きます。

家庭内において、家族の介護及び家事を
子供が担わざるを得ない「ヤングケアラー」の方々は、
学校の勉強をする時間が無い。
ともすれば、おのずと、そのような人たちは
学校の勉強ができない、というふうになってしまうだろう。
逆を言えば、子供時代において
学校の勉強がよくできる、ということは
家庭の問題もそこまで大きくなく、そして
親の収入があり学校以外の教材に取り組むこともできて、
また、親の学歴が高いため、子供自身が
勉強的な事柄に触れられる機会が多いからこそ、
学校の勉強ができる、ということもあるのでしょうか。
これらは非常にむつかしい問題なのだとも思うですが、
学校の勉強ができる、ということについては
その人本来の「地頭の良さ」だけでなくって、
あるころからとくに言われるようになった
「親ガチャ」という語句はあんまり使いたくないけど、
けれども、ある意味では
めぐまれている、とも言えるやかもしらない。

だから、ぼくとしては、
学校の勉強ができる人、つまり、そういう子供たちが
学校の勉強をできない人を見て、
その人のことをばかにする、というのは
ちがうんじゃあないか、って思ったりもする。
つまり、その人たちには
その人たちなりの事情や状況がある。
そのようなことを考えようとしないともすれば、
いくら、勉強ができたとしても
「頭がよい」とは言えないんではないか?!

そしてまた、でも、子供のころには
学校の勉強ができなかった人が、
年齢を重ねて、子供のころに抱えていた問題が
ある程度解消されたようなときには、
その人なりに勉強を始めて、そして、
勉強ができるように成る、ということもあると思う。

あとはまた、学校の勉強だけでなくって、
なにかを勉強することは、そのための
「動機」が大切だと思うのよね。
つまり、何のために勉強をするのか?
ぼくは一応、大学を卒業しているので、
子供のころ人並みには勉強をしていたと思うけど、
いかんせん、その動機がわかっていなかった。
(建築士になりたいという子供のころの夢があり、
大学では工学部建築学科を入学・卒業したけれど、
大学在籍中、ぼくはそこまで
建築をやりたいわけでない、と気づいてしまったから。)
今思えば、つまり、
やらされているから、ただ、やっているだけ、
だったと思う。そういうようなぼくは、
「頭がわるい」なのだと言えるんだろう。

って考えながらあらためて思うのはね、
ぼくとしては、いつごろからか
「頭がよい・わるい」ということを
考えないようになったなあ、と。
つまりはさ、人間の「頭」とは
「よい」か「わるい」かの区分によって、
判別できるものじゃあない、と思うというか。
もっと言おうとするならば、
頭がよいのかわるいのかなんて関係ない。
ならば、じゃあ、そこには
どんなことが関係しているのか?
ってゆうのはよくわからないんだなあ〜。

と言うかのごとく、いろいろな物事を
「よくわからない」と申すぼくは、
頭がわるい、と言われても致し方ないんだぜ!

令和6年4月28日


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