最後の親鸞以後

「これよりもかも生きようがなかった」

前回noteのつづきです。)

ほんじつも、ほぼ日刊イトイ新聞「吉本隆明の183講演」より、
吉本隆明さんの講演「『最後の親鸞』以後」での、
ぼくが、あぁー! って想った箇所を
ピンポイントでじっくり聴いてみるシリーズ、やりますっ!!!

前回では、
「人間が意志して出来る善悪なんて全く無いんだ、という言い方を(親鸞は)しています。
 このことを僕なりの言い方で説明しますとね、僕もね、割りに好きなんですよ。つまり、人間が意志して出来ることなんてのは大したことじゃない。っていう考え方は、ものすごく好きなんです。
 僕は信仰者じゃないから決して『宿業だ。』と親鸞のように言いませんけどね。不可避だ、という言い方をするんですけどね。」
のばめんでした。

つづきですー。。。

あの、えーと。僕…、自分はそう思うんですよ。僕はね、あの、大して、その。大して、その。まあ、まだ50ぐらいしか生きてないわけだけど。その。あの、つまり、50ぐらい生きてきたそのね、体験から…。まあ、大した体験でもないですけどねぇ、あの、言うとね。
【チャプター10「 <善悪>の問題 ─ <宿業>という考え方」3:45~】

「僕の50ぐらい生きてきた体験から言うと、」

‥‥というところで、
「たいした体験でもないですけどね。」と
謙遜をなさいながらおっしゃる吉本さん。。。

そして、、

だいたい、自分の意志で以ってね、あの。意志で以って出来たことってのは、まず、無いんですよ。つまり、俺はこうなろうと思ってね、なったことなんて、ちっとも、ひとつも無いですよ。

「じぶんの意志でもって出来たことは、つまり『俺はこうなろう』と思ってなったことなんてひとつもないですよ。」

ひとつもない。。

あの、全部…。たぶん、あの、はじめには…。はじめには、たぶん、あのね。こうしよう、とかね。勉強しよう、とかね。あの、要するに、どうしよう、とかね。あの。そ…、やるわけ…、やるんだけどね。

「たぶん、はじめには『こうしよう』とか『勉強しよう』とか『どうしよう』とか、やるんですけど。」

はじめには、、

あの、たいていそれで…、それでなんか、どうにかなっちゃったっていうことはね、あの。僕は経験上は全く無い…、無いですね。

「それでどうにかなっちゃった、ということは、ぼくは経験上はまったくないですね。」

経験上、とおっしゃるのが、なんだかほんとうに、
とてつもない時間の長さを感じます。

そして、、

あの、それから、あの。人間はどういう…、どういう道を行ったら良いのか、どういう道を選んだら良いのか、ね。あの、どういう道を選んで生きたら良いのか、っていう概念はね。たぶん、意志してね、選んだね…、みなさんだって、そうだと思いますよ。

「人間はどういう道を行ったらよいのか? どういう道を選んだらよいのか? どういう道を選んで生きたらよいのか? という概念は、たぶん意志して選んだ…、みなさんだってそうだと思いますよ。」

ここで吉本さんおっしゃる「みなさん」とは、
この講演を聴きに来ておられる聴講者の方々だとは
ぞんじますが、、

つまり、あの、俺はその揺るがすわけじゃないですけどね、その、信仰を揺るがすわけじゃないけどね。つまり、みなさんだって意志して…、あのね。意志してね、あの、やれ…、やれることとかね、やったことなんてのはね、大したことないですよ。

「つまり、みなさんの信仰をゆるがすわけじゃないですけどね。みなさんだって、意志してやれることやったことなんて、たいしたことないですよ。」

それでも、もっと言えば、ぼくのようなこのように
講演をどこかしらで聴いている人たちへも、
言っているような気がするの。

あの、大抵はね、あの。これよりね。これよりもかも…、何と言ったら良いの…、もう、生きようが無かったよ。って言うね、ふうに…、あの、ふうにしか人間はね、絶対にそういうふうにしかね、生きられないもんなんですよ。

「たいていは、これよりかも生きようがなかったよ、って言うふうにしか人間は生きられないもんなんですよ。」

これよりもかも生きようがなかった。。。

‥‥というところまでを聴きまして、
このつづきは次回noteですー。

令和元年6月11日


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