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講演『「かっこいい」ということ』(後編)

前々回前回のブログよりひきつづきまして、
吉本隆明さんの講演
『「かっこいい」ということ ─岡田有希子の死をめぐって』
を聴きながら、ぼくが思ったことを記します。

これまでは、たとえば、
芸能人は芸能人の場所から、そして、
主婦は主婦の場所から、政治家は政治家の場所から、
詩人は詩人の場所から、文学者は文学者の場所から、
社会の現象を評価したり裁断したりすれば
それで済んでいたのが、現在(1986年当時)は、
そういう問題では済まされなくなってきた。

演じている場所であり、役割の場所であり、という、
透明なカプセルに閉じられたような場所から、
「離脱する」という課題が生じてきた。
と、吉本さんはおっしゃいます。

つまり、自分の居る場所に、
ドッカリと座っていれば、よい。
とゆうわけには、行かなくなってきた。

このことを踏まえながら、
吉本さんの考えられる
「かっこいい」の条件が2つあって。

ひとつめは「消極的な条件」として、たとえば、
生活人なら生活人として、
サラリーマンならサラリーマンとして、
芸能人なら芸能人として、
文学者なら文学者として、
なにかの役割で居る場所、というのは、
「かなり危ないぜ。」と自覚すること。
つまりは、俺の居る場所ってえのは、
どうも怪しくなってきたぜ。と、考えられること。

もうひとつの「積極的な条件」のほうは、
「役割で居る場所」ではない
じぶん自身の「本来的な場所」というのを、
直感的なのか、論理的なのか、感覚的なのか、によって、
「じぶんなりにつかむ」こと。

そして、
作品なり、行動なり、人物なりが、
このふたつの条件を兼ね備えていれば、
その人は「かっこいい」と言えるんではないか。

前回noteで聴いた場面の中で吉本さんが挙げられた)
村上春樹の『パン屋再襲撃』や
村上龍の『POST』という作品が、
ふたつの条件を備えている、というふうには、
思いませんけれども、すくなくとも、
ひとつめの「消極的な条件」のほうは
備えているんじゃあないか。
そう感じられたことが、このふたつの文学作品を
「かっこいい」と思えた根拠だと言えるんではないか。

‥‥とのように、吉本さんは言っておられます。

だからこそ、じぶんの「役割として居る場所」が、
「安定した場所」だとは思わず、
「絶対的な場所」だとは思わず、
透明な壁のカプセルの中から「離脱」をしながら、
「じぶんの本来的な場所がどっかにあるんだ!」
と思いながら、身体や精神を移すかのように、
「つかもうとする」こと、または、
「探す」ことを、課題とする。

そして、これらは吉本さんご自身が、
「僕自身もできていないので、
 僕自身が、その課題を負っている。」

‥‥とおっしゃいながら、この講演は終わられます。

なんだか、なんとなく、ぼくはこの内容をね、
完全なところまではわかってないとは思いますが。
でも、どことなく、
わかるような気もするの。

講演を最後まで聴いて、とくに、
この今の事態だからこそ、
「じぶんの居る場所」というのは、
絶対じゃあない。って感じながら、
これからのじぶんの生きる「場所」とゆうのを、
つかめるようであれたら。と想いました。

さて、では、つぎはどの
吉本隆明さんの講演を聴こうかなあ〜。

ユッコの歌声も、まだ、聴きたい。。。

令和2年4月10日


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