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なにを書かないのかを考えるときには。

文章を書くことにおいて、
なにを書くのか、よりも
なにを書かないのかを考えることが大切である、
と、よく言われているけれども。
でも、これってば、
案外むつかしいと思っている。

なにを書かないのかを考えるとき、
ぼくは、果たして、そこで
なにを書かないのか? ってえのは、
どうやって決めているのか?!

たとえば、仕事上における
守秘義務に関することは書かない、とか、
相手より聴いた秘密の話しは書かない、とか、
ぼく自身の個人情報は書かない、とか、などなど、
そういうのはさ、むしろ
「書かない」と言うよりかは
「書けない」と言ったほうが近い気もするけれども。
ともすれば、つまり、
なにを書かないのかを考える、というときには、
守秘義務、秘密、個人情報などを書かなければ
なにを書いてもだいじょうぶ!
ってゆうわけでも無いと思える。

そう考えながら思ったのはね、ぼくの場合では
なにを書かないのか? というのは、
じぶんがただただ隠していたいから、
書かない、ってゆうのも多いんだろうなあ。
たとえば、昨日見たAVのタイトルとか
そういうのは書かないんよ。
いや、これは「たとえば」のことですので
ぼくが昨日実際にAVを見たかどうかとか、
そういうのはよこに置いておいて。
でも、仮に昨日見ていたとしても
ぼくとしては、ブログでそういうのは
書かない、と申しますか、
書けない、と申しますか。
書きたくない、と思っているのでしょう。

逆を言えば、ぼく自身が
ブログで何を書くのか? というのは、
ぼくはこういう人間である!! って、
印象操作したい、というふしもあるやもしれないか。
つまり、文章というのは
「ことば」だけでできているんだから、
文章を書くときには、そこで
「うそ」はついてなかったとしても、
「ほんとうのこと」をすべて書いているわけでもない。
いわば、なにかをしるすときには
意識的に、もしくは、無意識的に
隠している事象があって、かつ、
じぶん自身をこういうふうに見せたい!
みたいな気持ちも働いてしまうものである。

かと言って、文章じゃあなくって
実際に行動をするときには、
そうもゆかないのだろう。
たとえば、外を歩いていて
きれいな女の人を見かけたら、
ふとその方のことを目で見てしまう、とか。
つまり、文章では隠せていたようなことも
実際の行動では隠し通せない。
いやいや、でもそれは文章においても
隠そうとすればするほど不自然になるかのごとく、
文章よりにじみ出てしまっている
「なにか」というのもあるのかもしれない。

つまりはさ、そういうふうに考えてみれば
文章を書くときにおいても、
「裸」のまんまじゃあなくって、
「服」を着ることで局部を隠す、みたいなことが
なにを書かないのか? を考える、
ってゆうことなのか? それとも、いわゆる
「能ある鷹は爪を隠す」的なことなのか?
もしくは、ヅラをかぶって
あほなことをする、ということも
ぼくにはできないんだから、それは、いわゆる
かっこつけちゃってかっこわるい、的な????

みたいなことを書いてみた今回のブログの中ではね、
ぼくは、いったいぜんたい
なにを書いていないのか? なおかつ、
なにが書けていないのか? みたいなことだっても
もはやぼくにはわかんない。
それこそ、ばかだなあ〜、
って、じぶんでも思っちゃう。

令和6年5月3日


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